(1)
クリスチャンには、律法を守る責任がある。
このように言うと、tomiは、クリスチャンを再びくびきのもとにおこうとしている、批判する人々が現れる。
違う。くびきではなく、解放である。
罪こそくびきである。
ピアノを音楽の和音の法則にしたがって美しく奏でる人は奴隷のくびきのもとにあるとは言わないだろう。
法律や法則をくびきと考えるのは間違った自由の概念に毒されているからだ。
それは、ルネッサンスから現代に至るまで「神の法から解放されようとしたヒューマニズム」に影響されたからだ。
ヒューマニズムは、「奴隷とは神の法に縛られることである」と定義する。
クリスチャンは、このような間違った定義に影響されてはならない。
聖書を見なさい。
神の法は、解放されたイスラエルに与えられた。
「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」(出エジプト記20・2)
この直後に、十戒の宣言がある。
あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。 ・・・
(出エジプト記20・3−7)
律法は、奴隷のくびきではない。
それは、「解放のための法則」である。
だから、私が「クリスチャンには律法を守る責任がある」と述べたとしてm、私をクリスチャンを奴隷化しようとしていると考えてはならない。
実際、私は、「再びくびきのもとにおこうとしている」として教会から断罪された。
交通法規を考えてほしい。
交通法規を奴隷のくびきと考える人がいるだろうか。
交通法規があるからこそ、我々は自由に車を運転できる。
赤信号で止まり、青信号で進むことによって、我々は事故を起こさずに運転する自由を得る。
法律とは、元来自由を与えるためのものなのだ。
ピアノの鍵盤をめちゃくちゃにたたく人を自由人とは言わない。
法則にしたがってたたくことができる人を「ピアノが弾ける人」と呼ぶ。
何でもそうだが、自由を得るには、法を守る必要がある。
法を超越したいとの願いは、「神のようになる」というアダムの誘惑である。
アダムはサタンから「あなたも神のようになれます」と誘惑され、禁断の木の実を食べた。
人間の根本的な誤謬は、自由の概念の履き違えにある。
それが、今福音派や聖霊派、そして、カルヴァン派の中にすら存在する。
法を毛嫌いするのだ。
大きな誤謬の中にあると言ってよいだろう。
(2)
なぜ法を守るべきかというと、契約の中にいるからだ。
人間は、アダムにおいて「業の契約」の中にいる。
アダムの子孫である我々もその契約の中にいる。
契約である以上、規則がある。
それは、十戒を基本則とする様々な聖書の法令である。
たとえば、我々は殺人を禁止されている。
そして、業の契約の中にいる限り、我々は処刑される。
なぜならば、アダムにおいてすでに罪を犯し、「死ぬ」運命を負わされたからだ。
人類全体はアダムにあって、処刑される運命にある。
キリストを信じない限り、すべての人は処刑される。
どのように?
死においてだ。
ノンクリスチャンの死とは、処刑である。
「罪がはらんで死を生む」とある。
罪が飽和状態に達すると、処刑が始まる。
キリストを信じなければ、すべての人間の運命は死刑である。
キリストは、この処刑義務を身代わりに負われて十字架で処刑された。
だれでもキリストと契約を結ぶ人間は、処刑されない。
(3)
クリスチャンは、キリストの契約の中に入ったので、業の契約の外にいる。そのため、このアダムの運命から解放された。
しかし、キリストの契約の中に入ったのであるから、規則によって拘束される。
もちろん、拘束といっても、自由のための拘束である。交通規則のような。
すべての契約は、遵守すべき規則がある。
保険契約でも、契約者には義務がある。
義務を守らない限り、保険金を受け取れない。
同じように、キリスト契約に入った人々にも義務がある。
それは、キリストの法である。
キリストの法とは、モーセ律法が普遍化されたものである。
モーセ律法は、イスラエル民族という時代的・地域的・民族的に限定された特殊な法律である。
キリストの法とは、この律法を万人が守れるように普遍化したものである。
旧約時代において、祭司はレビ族しかなれなかったが、新約時代において、ユダ族であるキリストが祭司であり、しかも、キリストにつくクリスチャンは、異邦人ですら「祭司」(1ペテロ2・9)と呼ばれている。
祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりません」(ヘブル7・12)
祭司職がレビ族から、全民族に変化した以上、律法も、イスラエルの民族的法から、万人の法に変化した。
キリストの法とは、モーセ律法をはじめとする聖書律法を普遍化したものである。
モーセ律法は、このようにしてキリストにあって「確立」された。
それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)
(4)
法を否定するキリスト教とは、キリスト教ではない。
それは、間違った思想に基づく。
その根源には、「神の法から逃げ、自分で法を作ろうとした」アダムの罪がある。
カントは、この現代版を作った。
彼は、聖書律法ではなく、人間が自分で個々に作り上げたおきてで歩むことができるとした。
進化論は、この思想を補強する働きをした。
このようにして、現代人は、反キリストととなり、真っ向から神に敵対するようになった。
このような反キリストの影響を強く受けたのが今のキリスト教である。
法を毛嫌いする思想をキリスト教の中から取り除かねばならない。