精神のバランスを回復するには


(1)
メル・ギブソンの『パッション』という映画が全米歴代一位を取ったそうだ。

この映画は上映前から、ユダヤ人による反対があったという。

「ユダヤ人にキリスト殺しの罪を負わせることは、ユダヤ人迫害につながる」と。

これは、キリストの贖罪の意味が分かっていない妄言である。

「キリストを殺すことがなければ人間の罪は消えない」のだから。

キリストは、旧約聖書の「いけにえの子羊」の実体である。

いけにえを捧げて罪を赦してもらおうとする人は、自分の手で羊を殺さなければならない。

この儀式を通じて、人々は「我々の罪がこの羊を殺したのだ。我々には誰かの血を犠牲として流す必要があるのだ」と理解した。

もし我々がキリスト殺しと何の関係もなければ、我々の罪は永遠に消えない。

ユダヤ人は確かにキリストを殺したのだ。いや、殺さなければ、ユダヤ人の罪は永遠に残っただろう。

異邦人もキリストを殺したのだ。処刑を行ったのはローマ人である。キリスト殺害には、ユダヤ人も異邦人も参加した。

異邦人がキリスト殺害に関わらなければ、異邦人の罪は永遠に残る。

神は不思議な方法で、ユダヤ人も異邦人もキリスト処刑に関わらせられたのである。

このようにして、全人類がキリストを犠牲として神に献上した。


(2)
歴史において、十字架には特別の意味がある。

十字架は、ブラックホールである。

何もかにも飲み込む力がある。光すらもそこに入ったら出られない。

十字架は、あらゆる罪を飲み込む力がある。どんなに重い罪であっても、十字架の中に吸い寄せられないものはない。

そして、そこに吸い寄せられたら最後出てこれない。

人間が犯した罪の代価は十字架において完済された。

すべての責任がそこに飲み込まれる。

人間はみな罪責を負っている。

人間には、どうしても犠牲が必要である。

十字架は不要だ、という人は、廃棄物処理場は不要だ、と言う人に似ている。

どの自治体にも廃棄物処理場がある。もしなければ大変だ。そこら中にゴミが溢れて腐臭が溢れるだろう。

十字架がなければ、人間の歴史の中に罪責が充満してしまう。

人間の行為には責任がつき物だ。責任があれば、当然、刑罰がある。刑罰を避けるには、犠牲を捧げる以外にない。

十字架とは、人間の罪責が処理されたことを示すシンボルである。

十字架のない世界は、廃棄物処理場のない社会と同じである。


(3)
心理学は、罪責を問わないで精神の平衡を保つことを提唱している。

なぜならば、近代科学は神を捨てたからだ。

神を捨てたと同時に、神の前にある罪責の正しい処理法をも捨てた。

心理学は、十字架以外の罪の処理法を提唱している。

しかし、こんなのがうまく行くはずがないのだ。

だから、心理カウンセリングでは人間の精神は正常に戻らない。

精神を破壊するのは、心の中にゴミをためているからだ。

ゴミ出しをせずに生ゴミを部屋の中に放置したらどうだろう。腐臭が部屋に充満するだろう。

どんなに「ゴミなどないのだ」と暗示をかけても、腐臭は常に鼻につき、精神をおかしくするだろう。

罪を放置する人は、自分で自分の精神をおかしくしているのだ。

正しい解決は一つ。神の存在を認め、神に対して罪を犯したことを認めて、十字架の犠牲を信じること。そして、罪を正しく処理し、心の掃除をすることだ。

そうすれば、精神のバランスが回復されるだろう。


 

 

2004年3月30日

 

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