キリスト教は排他的?2
小沢氏は、「キリスト教は排他的で独善的な宗教」というが、真理とは排他的である。真理とは、独善的である。
だから、科学は、排他的である。
たとえば、医学で、投与するとかえって危険な薬は「投与禁止」になる。
「そんな禁止なんて、器量が小さい。もっと他のものを広く受け入れるべきだ」といって禁止薬物を、投与すれば、それによって害が及ぶ。
「キリスト教は進化論を否定する。狭量だ!」と叫ぶ人々が、実際に進化論を適用すればどういうことになるだろうか。
進化論は、「人生に目的も意味もない」と遠まわしに言う教えである。
なぜならば、人間とは、偶然の産物だから。偶然が積み重なって動物から進化したのが人間だから。
実質的に教師が、生徒に進化論を教えることは、「おまえたちの人生に意味はないんだ。人生なんてあきらめろ。」といっていることと同じだ。
こんな恐ろしい立場を受け入れることが「器量が大きい」ということなのか?
真理は狭量である。
だから、真理を愛する人々は、物事が正しいか間違っているかを峻別することを望む。理屈に合わないことを嫌う。
「正」対「反」を対立させる考え方を嫌う人々、いわゆる弁証法的な思考方法を取る人々は、実は真理を愛しているのではなく、自分の意見を愛しているのだ。
自分の意見を通したいから、こういう詭弁的な方法を取る。
「この動物は犬だ」という命題が真であれば、「この動物は犬ではない」とうい命題は偽である。
弁証法とは、「いや、偽のほうにも一理あるからどちらも正しいということにしてしまいましょう」という考え方だ。
こういう考え方を取ると、人々は、真理をきっちりつけることができなくなり、ぼける。
わけの分からない理屈を使って、詭弁で人を騙そうとする人々が使う手だ。
だから、私は、日本人に言う。
小沢氏のような宗教論を信用するな、と。
わけもわからない、歴史的証拠も何もない誤解と偏見と無知に基づくキリスト教批判などを信じるなと。
(2)
それから、もう一つ、キリスト教に敵対することは自殺を意味する。
わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。(箴言8・36)
2009年11月24日
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