心の安定を得るには


現代人は、安定した心を持つ人々を馬鹿にする傾向がある。

たとえば、信念を持ってものを言う人々は、狂信者とかトンデモとか呼ばれる。

これは、科学的態度が、無秩序に拡大されたからだ。

科学的態度は、いつも「開放」的でなければならない。

教条主義に陥ることは許されない。

科学は、常に新しい事実が現れた場合に、既存の学説を変化させなければならない。

常に反証の可能性を残し、固定されてはならない。

帰納法の認識論とはこのようなものだ。

つまり、経験によって理論を変化させる可能性を残しておく。

しかし、このような態度を、心や倫理に適用させると恐ろしいことになる。

現代人が子供の教育を自信を持ってできないのは、「確信」を嫌悪する科学的な態度に由来する。

新しい情報によって、倫理も常に変化するべきだと。

固定された価値観を持たないようにしようと。

とくにオウム事件やブッシュ大統領のイラク戦争以来、「宗教とくに一神教は他者を受け入れない偏狭な思考に陥りやすくする」との考えが広まった。

「だから、多神教は優れているのだ」みたいな。

これはまったくナンセンスである。

多神教のローマはクリスチャンを大量虐殺した。

多神教の日本もキリシタンを大量虐殺した。

宗教や一神教に虐殺や悪事の責任を負わせることはできない。

科学が悪いというのではなく、科学的な態度は科学に限定されなければならないといっているのだ。

我々の倫理観、価値観、そういうものまで不安定にし、開放化すると、精神を病む人々が増える。

現代人に精神を病む人々が増えているのは、「価値観がめまぐるしく変動するから」である。

時代の変化が激しいので、信念が崩れやすい。

腕のある職人がコンピュータ制御の機械に容易に取って代わられる。

簡単に自信喪失する時代なのだ。

確信は必要だ。

我々は、動くことのない基準を持たねばならない。

そうしないと精神を病んでもおかしくはない。

まず、第一に、「科学的態度を宗教に適用するな」という原理を確認しなければならない。

宗教は、信仰の世界であり、演繹法の世界である。

帰納法が、データを集めて、そこから法則を発見するという下から上への方向であるのに対して、演繹法とは、まず動かせないテーゼがあって、そこから、個別の事象に適用を行っていく上から下への思考法だ。

クリスチャンは、聖書は絶対に正しいとのテーゼから出発しなければならない。そして、個別の問題に適用していく。

科学的方法をここで使用してはならない。

聖書に基づく演繹法の考え方で世界観を構築し、それに合致する科学的知識だけを受け入れなければならない。

聖書は「タブー」である。

手を触れてはいけないものである。

それに反する考え方を持つならば、クリスチャンではない。だから地獄を選択することに等しい。

もし我々が新しい科学的知識を得たならば、それを聖書の教えに適うか反するかという基準でえり分けなければならない。

我々にとって、聖書は不動の基準である。

これ以外の思考が自分の脳裏に浮かんだならば、ただちにかき消すべし。

少しでも入れて、「聖書はこういうけど実際はどうなんだろうか」などという疑念が生じたら、ただちに頭を切り替えるべきだ。

そのためには、御言葉の暗記は不可欠だ。

神は御言葉によって我々に語りかけてくださる。

危険なときには、御言葉がひらめく。

それで御心が分かる。

精神的な安定は、「問答無用に非聖書的思想を切り捨てる」以外には獲得できない。

精神的に不安定で、いつも内面の問題でぐらぐらしていては、自分の人生の無駄遣いだ。

貴重な何物にも変えがたい一生を、内面の不安定を処理するために費やすなんて本当にもったいない。

まず、聖書をタブーといて、手を触れてはいけないものとして心の中に置くこと。

そして、聖書に反する考えが浮かんだら、ただちに捨てること。

不安定な人は、自分の心をコントロールすることに慣れていない人が多い。

自分の心をコントロールするには、訓練が必要なのだ。

考えたいこと、思いたいことを自然にまかせて考えたり思ったりすることに慣れると、「心の筋肉」が萎える。

自分の意志によって、統御すること。

これが大切だ。

 

 

2009年11月20日

 

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