御言葉は前提である


三位一体論などについて「理解できない」と言う人々がよく陥る誤謬は、「聖書において啓示されているところから出発する」という考え方を体得していないことから来ている。

この考え方をするのは、「すべてを疑え」と述べたデカルトの認識論に現代人がどっぷり漬かっているからである。

認識の主体を人間の理性に置くことによって、デカルトの哲学は、人間を神の座に据えた。

神の啓示すらも人間がジャッジできると考えることは冒涜であり、「三位一体論を矛盾なく説明せよ」と迫る態度は、「啓示されたことで満足する」という節度ある僕の態度ではない。

神が聖書において啓示していない事柄について、我々は論理を尽くして議論することも可能であろう。

しかし、神が聖書において啓示されたことについては、議論は無意味である。

もちろん、聖書の正しい意味を探るための議論というものもあるだろう。

しかし、それが事実かどうか、などという議論は無意味である。神が啓示されたことをジャッジすることは、自分が神となることに等しい。

だから、三位一体論を退けるあらゆる立場の根本的な姿勢は、「自分を神とする」という傲慢にある。

聖書を虚心坦懐に読めば、三位一体論しかありえない。

ヨハネは、イエス・キリストを表す「ことば」が「神とともにあった」と述べながら、すぐ後において、「ことばは神であった」と述べている。

神とともにあり、なおかつ神である、ということは、明らかに、父と子がどちらも神であることを示している。

他の個所において、イエス・キリストは、神として礼拝を受けているが、ご自身は神に祈っておられる。

このような神の啓示を前にして、「神が複数位格を持つならば、それぞれは有限にならざるを得ず、絶対神は否定される」というような理屈を並べることはできないのである。

神が啓示されたら、「はい!わかりました!」としか言ってはならない。

「でも…」というのは、デカルトによって迷信と傲慢に引きこまれたヒューマニストの迷言である。

神が神であられる以上、神の言葉に逆らうことのできる人間は一人もいない。もし逆らったならば、相応の裁きが待っている。

我々被造物は、神の啓示「から」出発しなければならない。

「聖書は神を三位一体として描いている」という事実から出発し、三位一体を前提として思考を開始しなければならない。

だから、ワンネス神学だのサベリウス主義だの、ものみの塔だの、神のご存在について聖書の三位一体論に基づかずに論を展開するあらゆる立場を異端として排除しなければならないのである。

聖書が明確に父と子と聖霊を分けて叙述しているならば、我々もそのようにして扱わねばならない。つまり、父と子と聖霊は別の人格であり、互いに交流ができると考えなければならない。

それについて疑ったり否定したりするならば、自分が悪魔に憑依されても文句は言えない。なぜならば悪魔の最初の誘惑は「神は本当にそう言われたのですか?」という疑問だったからだ。

自分の認識能力ではなく、聖書の御言葉を出発点にするという思考の大革命を行わない限り、我々は悪魔にだまされ続ける以外にはない。

 

 

2005年4月12日

 

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