ビザンチン本文に直接帰る以外にはないのではないか?
第1ヨハネ5:7は、ビザンチン、アレキサンドリア、ウェストコットとホートともに「For there are three that bear record in heaven, the Father, the Word, and the Holy Ghost: and these three are one.(天において証しする者が3つあります。父、言葉、聖霊です。そして、これら3つはひとつです。)」を省略しています。
これを入れているのは、Textus Receptus(Received Text)だけです。
Textus Receptusの成立が新しいので、後代の三位一体論者が追加したのではないかと考えられます。
永井訳新契約聖書が、「彼は我に勝り給う」と訳しているのは、Textus Receptusの影響でしょう。ビザンチン本文に忠実に訳しているものはまだ日本語ではないということなのでしょうか。
ちなみに、ヨハネ福音書1:27では、ビザンチン本文にある「os emprosqen mou gegonen 」が、アレキサンドリアにはなく、Textus Receptusにはあります。
そして、Textus Receptusでは、「彼は我に勝り給う」と訳しているのですが、文法的に考えて、「彼は我の前に現れ給う」と訳すべきではないかと考えています。
実際、そのように訳している聖書もあります。
下記のページは、本文比較のうえで非常に役に立ちます。
http://www.greeknewtestament.com/B43C001.htm#V27
アレキサンドリアを回避して、(教会が少なくとも1400年間使ってきた、そして、プロテスタントクリスチャンの場合、宗教改革以来、19世紀後半まで使ってきた)ビザンチン本文に戻るとしても、(ビザンチンをもとにエラスムスがまとめた)Textus Receptusに帰るのがよいのか、それともビザンチンに戻るのがよいのか、という問題がありますが、私は、1ヨハネ5:7の問題、ヨハネ1:27の問題などから、どうもTextus Receptusを信用できなくなりつつあります。つまり、Textus Receptusを経由せずに、ビザンチンに直接帰る以外にはないのではないかと。
2010年4月17日
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