世界は破局に向かっているのではなく、完成に向かっている
「終末への秒読み」とか「終わりが近づいている」というようなセンセーショナルなキャッチコピーが氾濫している今のキリスト教出版界は異常である。
聖書のどこに「終末預言」があるのだろう?
みんな緻密な釈義をすっとばして、「感覚で」終末預言と判断しているだけだ。
時代背景と文脈を考慮し、しっかりとした解釈を行えば、こんなセンセーショナリズムは生まれないはずだ。
911が起これば「見なさい。これこそ終末の前兆だ!」と言い、津波が来れば「いよいよ終わりだ!」と言う。
なぜ?
売れるから。
終末預言本は売れるのである。
『地球最後の日』は3千万部売れた。
『レフト・ビハインド』も5千万部売れたと言われている。
終末預言本はキリスト教出版社にとってドル箱である。
しかし、それによって、その出版社だけではなく、キリスト教がどれだけ多くの信用を失っているだろうか?!
福音派のキリスト教は、「終末が近い!」と1830年代(日本では江戸時代)から言いつづけてきたのである。
はっきり言おう。
彼らが終末預言と呼んでいるほとんどすべては、「イスラエルの終末預言」であり、「世界の終末預言」ではない。そして、それは、紀元70年に成就した。
大患難時代の預言と言われているマタイ24章は、ちゃんと「これらが起こるまでこの時代(ギリシャ語『ゲネア』=1世代=30−33年)は過ぎ去らない」と、イエスにくぎを刺されている。
にもかかわらず、彼らはそれを現代の出来事と考えたいためにイエスの御言葉を無視している。
彼らが挙げる他の無数の証拠個所も、証拠になっていない。
彼らは、「新約聖書の主な関心は、契約の民の運命にある」ということを忘れているのである。
契約の民とは、神と契約を結んだユダヤ人である。
新約聖書の書かれた当時、ユダヤ人は、神に逆らっていたので、破局をむかえつつあった。
ユダヤ人中心の「民族的経綸の時代」は終わろうとしていた。
神は、この時代の終末の前に、契約の民すべて(パレスチナに住むユダヤ人と、全世界に散っているディアスポラのユダヤ人)に福音を知らせ、それに対する態度にしたがって、彼らに「永遠のいのち」か「永遠の滅び」かを選択させた。
福音を受け入れた者には、守りを与え、受け入れなかった者は、ユダヤ戦争とエルサレム陥落の中で滅んだ。
その時、新約聖書にある「終末預言」はほとんど成就したのである。
破局は過ぎ去った。
そして、新しい時代が到来した。
それを聖書では新天新地とか千年王国と呼んでいる。
キリストが世界の王になり、主権者になられた。
「わたしに、天においても、地においても一切の権威が与えられた。」
それまでは、サタンは、諸国民を騙し、目をふさいでいたが、新しい時代になって縛られているので、諸国民の目が開かれ、異邦人が福音を担うことになった。
今、我々が住んでいるのは、新天新地なのである。
キリストが、まことの至聖所に入って、一度限りの贖いを成し遂げ、「天にあるものも、地にあるものも、一切のものを神と和解させてくださり」(コロサイ1・20)、全宇宙を清め、一新されたのである。
紀元70年において、世界という舞台の幕は一度引かれたのである。
紀元70年以降、新たな幕が開かれた。
これ以降は、「破局に向かう世界」ではなく、「完成に向かう世界」である。
法的に世界は新天新地になった。
しかし、実際的な新天新地ではない。
法的には日本人になったブラジルからの帰化人が、初めのころまだ日本語ができず、日本の習慣にも慣れていないように、世界は法的に新天新地になったが、実際的にはまだそれまでの世界と変わらない。
ローマでは、依然として、囚人が野獣と戦わせられていた。十字架刑のような残虐刑が世界中に満ちていた。奴隷制度は存続し、人々の自由は制限されていた。
しかし、福音が広まり、人々の心が再生されるにつれて、異邦社会がどんどんと変わり、新天新地に相応しい状態に変わっていった。
我々が今住んでいる世界は、「法的新天新地」から「実際的新天新地」に、「法的千年王国」から「実際的千年王国」に移行している途上にある。
この予型は、ヨシュアに率いられたイスラエルが、カナンを征服した記事である。
神は、まだカナンに入る前にイスラエルに向かって「カナンの地をおまえたちに与える」と宣言された。
ここにおいて、所有権が移行し、カナンの土地は「法的に」イスラエルのものになった。
しかし、実際に戦わない限り、その土地はイスラエルの土地にはならない。だから、それは「実際的な領土」ではなかった。
イスラエルがカナンに入り、戦いを通じて領土を拡大したときに、徐々にそれは「実際的な領土」に変わっていった。
(カナン征服の合法性については、FAQを参照せよ。)
大宣教命令とは、「世界を法的新天新地から実際的新天新地に変えなさい!」との命令である。
福音が伝わって、人々の心が再生し、神のために働きたいと願う人々が登場しない限り、被造物は虚無の中にうめき苦しむ状態を続けなければならない。
「被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。
それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」(ローマ8・19−22)
クリスチャンが聖書に基づいて仕事をし、様々な活動をするときに、被造物は本来の役割を果たし、虚無から解放される。
このようにして、法的な御国は、実際的な御国に変わっていく。
最終的には「すべての国民がキリストの弟子となる」ことが目的である。
全世界が、実際的な新天新地に変わること。
これこそが我々のゴールである。
神はこの「万物の回復」の時まで、「イエスを天に留めて」おかれる。
「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時(原語では『回復する時』)まで、天にとどまっていなければなりません。」(使徒3・21)
再臨があって、世界が変わるのではない!
世界が変わってから、再臨がある!
このような過程をこれから世界はたどるのである。
2005年11月23日
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