プレテリズムの聖書解釈7


神は不変のお方なので、律法が無効化することはない。

では、動物犠牲などの祭儀律法はなぜ無効化したのか。

それは、イエス・キリストが犠牲の動物の本体であるので、もはや「不要」になったからだ。

犠牲の動物が表していた「神が義であり、罪を犯した人間は死を持ってその義を満足させなければならない」という真理は、イエス・キリストが十字架にかかったがゆえに、イエス・キリストにおいて表現され、動物では表現されなくなった。

つまり、形式が変わったのであって、意義は変わっていないのである。だから、律法は不変なのである。

たとえば、車好きの人がいたとする。子供時代、親は彼にミニチュアモデルを与えた。彼はそれで楽しんでいた。

しかし、彼が大人になって免許を取ったら、親は彼に実物の車を与えた。

「車」の形式は変化したが、車好きの彼の性質に変化はなかった。

律法は、一般に、旧約時代には、霊的な真理を象徴において表現していたが、新約時代には、奥義において表現している。

真理は不変である。表現方法が変わっただけである。

神の御性質は旧約時代も新約時代も不変である。だから、我々は、旧約律法を学ぶことによって、神がどのようなお方であるかを知ることができる。

律法廃棄論の決定的な間違いは、「法の無効化」にある。

神が不変であれば、法も不変である。旧約時代には、法の形式は、特定民族的で、象徴的であったが、新約時代には、世界普遍的で、実体的である。しかし、法の実質は変化しない。

フルプレテリズムの主な危険性は、ディスペンセーショナリズムと同様に、キリスト教から法を奪うところにある。

プレテリズムを学ぶ人は、この点によく注意していただきたい。そして、拙速に結論を出さないで欲しい。

 

 

2004年10月27日

 

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