終わりの日とは?


<Q>
(1)「すべての人」と「終わりの日」について
使徒行伝2:16以下でペテロが、このペンテコステの出来事は、ヨエル書2章の預言の成就だと述べていますが、ここでも「すべての人」は、その場に居合わせた人だけなのでしょうか?もしそうだとすると、10:44〜48が矛盾します。さらに、現代に生きる我々には「聖霊のバプテスマ」は与えられないことになってしまいます。また、ここでの「終わりの日」は、ペンテコステの日のみを指すのでしょうか?あるいはその日以来、紀元70年の終末預言成就まででしょうか。現代まで及ぶのでしょうか?

<A>
「すべての人」とは、「契約の民全員」ということです。
聖霊の賜物が契約の民以外に与えられるはずがありません。
預言、幻、夢など、神の啓示は、契約の民に対する神のメッセージです。
契約の民とは、旧約時代においては「イスラエル」、新約時代においては「イスラエル・プラス・クリスチャン」です。

聖書を見ると、「終わりの日」とは、「よみがえりの日」であると分かります。

「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。」 (ヨハネ6・39)

「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」 (ヨハネ 6・40)

「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。 」(ヨハネ 6・44)

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」 (ヨハネ 6・54)

「マルタはイエスに言った。『私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。』」 (ヨハネ 11・24)

「よみがえり」がいつ起きるかといえば、聖書によれば、「イエスが現れて以降」です。

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。』」(ヨハネ11・25)

ラザロは、よみがえりました。

「イエスを信じる者は、死んでも生きる。生きていてイエスを信じる者は、決して死ぬことがない。」

つまり、「よみがえりの時代が始まった」ということです。

クリスチャンは全員「よみがえった人間」です。

クリスチャンになる人は、紀元70年で終わったわけではなく、現在でも起こっているわけですから、「終わりの日」とは、「イエスが登場して後、世界の終末まで」ということになります。



<Q>
(2)「からだのよみがえり」について
第一コリント書の15章でパウロが死者の復活について述べていますが、私たちは、「朽ちないもの」即ち「天上のからだ」「天からの住まい」(2コリ5:4)「ご自身の栄光のからだと同じ姿(ピリピ3:19)を与えられるとして、この「からだ」は、初穂としてよみがえられたイエス様が生命体としての肉体(ルカ24:39〜43)をうけられたように、私たちの復活も、肉体を与えられるのではないでしょうか?

<A>
そうです。
イエスは、弟子たちが食べていた「魚」を食べられました。
肉体がなくてどうやって魚を食べられるのでしょうか。

永遠の世界において、物質世界は消滅してしまうのではなく、「変えられる」のです。

イエスの復活はその「初穂」であり、イエスの体を見ることによって、永遠の世界について知ることができます。

イエスの体は消滅して霊だけになったでしょうか???

いいえ。

「よみがえり」とは、「死んだままではない」ということです。

体が消えてしまうということは「死んだまま」ということですから、「再び体が与えられ」なければなりません。

今、中間状態、つまり、霊だけの状態にいる天のクリスチャンたちは、それゆえ「半分復活した状態」なのです。

再臨の際に体が与えられる時に、クリスチャンは完全に復活します。

 

 

2005年4月5日

 

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