神の法を野蛮呼ばわりする愚か者へ
どれだけ言っても誤解する人って何なの?
あるサイトで私が「普通の人を石打刑に処せ」と言っているという。
どこでそんなこと言っただろうか?
再建主義は、旧約聖書の律法、例えば石打刑などをそのまま適用せよという立場ではない。
我々は、旧約律法の原理を適用せよという。
そのまま適用するという立場はセオノミーではない。
セオノミーとは、旧約律法は古代ユダヤ人に与えられた「時代的・地域的」な制約があるが、新約時代においては、それを「超時代的・超地域的」に適用すべきだと唱えるのである。
だから、石打刑をそのまま適用すべきだというのは、セオノミーではない。
石打刑の原理をあらゆる国民に適用せよという。
じゃあ、石打刑の原理とは何か。
市民が処刑に参加することだ。
「野蛮だ」と感じるだろうか。
野蛮じゃない。神はイスラエルの民に対して、「罪とは恐ろしいものであり、罪の支払うべき値は死である。そのようなものとして罪をとらえ、罪を犯すことを恐れさせるために市民に処刑に参加させなさい」とモーセに言われた。
だから、処刑参加は犯罪の抑止効果がある。
これが神の知恵である。
神の知恵に対して「野蛮だ」というだろうか。
君、何様だね。
よく恐れもなく、神を野蛮人呼ばわりできるものだ。
神の恐ろしさを知っている我々から見ると摩訶不思議な人間だ。
神や神の法を野蛮呼ばわりしてそのままで済むと思ったら大間違いだ。
神は、悔い改めず、かえって神をあざ笑う人間に必ず復讐される。
神の法を野蛮呼ばわりした君、君の人生の中で神は君に対して必ず責任を問われるだろう。
「聖書はいずれ廃れる」といったヴォルテールの家が後で、聖書の倉庫になったように。
2008年5月12日
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