プレテリズムの聖書解釈5


> 特にフルの律法論には、私の頭では「アーメン」となってしまうので、困惑しております。
>
> 私もこれまで、ミレニアムのHPでは、本当にたくさんの事を学ばせて頂きましたし、
> これからも勉強させて頂きます。品性下劣なネット荒らしや、Y氏のような、はちゃめ
> ちゃな人とははっきり一線を画して断固とした立場に踏みとどまってください。そして
> 今後ともミレニアムのページで、お分かちください。よろしくお願い申し上げます。私も
> できる限りのサポートをさせて頂きますので、よろしくお願い申し上げます。

尊いサポートを感謝いたします。
8月にやった仕事でトラブルがあって、ここ2ヶ月かなりしんどい思いをしています。
とにかく私達の経済やら健康やらをつぶしにかかっているようです。
胃炎はかなりひどくなってしまいました。

さて、「フルの律法論」ですが、フル・プレテリストは、このように述べます。

「マタイ5・17-18において、イエスは、
『天地が滅びない限り、・・・律法の一点一画も廃れることはない。』と言われたが、聖書を見ると、紀元70年において天地は滅んで新しい天地がやってきた、だから、律法は廃棄され、新しい「キリストの律法」に変わった。」

ここで問題なのは、

(1)天地が滅んだので、律法は廃棄された、と聖書のどこで述べているか。つまり、このマタイ5・17-18のフル・プレテリストが解釈する説を補強する個所は何か? 律法の有効性という極めて重要な教理について、マタイ5・17-18しか補強聖句がないのか。もしそうならばおかしくないか? 「ほのめかす」だけではなく、はっきりと、「今は新しい天と地なので、以前の律法は廃棄され、新しい律法が現われた」と述べている個所がないのはなぜか? 

(2)「新しい律法」または「キリストの律法」とは具体的に何か? それはどこに書かれてあり、以前の律法とどのような関係にあるのか。なぜ、モーセの律法ではだめで、キリストの律法でなければならないのか。律法が変化したことは、「不変の神」の御性質と矛盾しないか? 時代によって法が変わるという発想は、ディスペンセーショナリズムと同じである。 フル・プレテリストは、実質的にディスペンセーショナリズムと同じように、聖書から律法を剥奪することにならないか?

(3)パウロはローマ3・31において、「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」と述べているが、これは、パウロがローマ書を書いた日から紀元70年までの間だけ有効であって、今はこのようには言えないのか。パウロは、本当に律法の有効期限を紀元70年に設定したのか。その証拠聖句は何か?

(4)フル・プレテリストは、大宣教命令はすでに紀元70年に成就したと述べている。本当に、紀元70年までの間に、世界は弟子化され、すべての国民がバプテスマを受け、キリストが命じた教え(旧約聖書と手紙と福音書)を守るように訓練されたのか?歴史はそのようなことを少しも示していないが。 そして、彼らが守るように教えられた旧約律法は70年で廃棄されたが、それ以降、彼らは旧約律法の代わりに何を守るように命令されたのか。それとも、紀元70年以降は、新天新地なので、弟子訓練は不要になり、何をやってもよくなったのか。
そして、70年以降、我々クリスチャンには世界宣教に関してどのような使命があるのか。もう大宣教命令が成就したので、それ以上何もする必要がなくなったのか。

もっと尋ねなければならない疑問があります。

残念ながら、日本のフル・プレテリストは誰もこれらについて回答してくれませんでした。
巧みに問題をずらして回答を避けられました。

もし、フル・プレテリストの律法観を受け入れられるならば、ぜひ、これらについても、彼らから誠実な回答を求めてみてください。

彼らが律法について、どのような立場に立っているかきっとはっきりするでしょう。

 

 

2004年10月26日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp