現代人の陥りやすい認識論上の罠3
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/406.html
Bさんの反応を見ていると、まだぜんぜん分かっていないということが明らかです。
「現代人の陥りやすい認識論上の罠2」の説明は、これほど「経験主義によるデカルト認識論批判」について噛み砕いたわかりやすい説明はないと自負していたのですが、残念です。
B氏の意見をキリスト教に適用するならば、それは、「聖書を絶対視するのはよくない。それを絶対的な権威として持ち、そのパラダイムの中で思考することは、自虐である。目を見開いて、自分の頭で考え、批判的に聖書を見ていこう。」という主張になります。
他の宗教についてはどうかわかりませんが、ことキリスト教に関する限り、「聖書を相対視する」ということは、キリスト教の死につながります。
このHPにおいて、ほとんどあきれかえるくらい私は熱心にこの間違いについて説明してきました。
これをまとめると、次の一言になります。
「世界一高い山よりも高い山に登ろうとする人は永遠にそれを実現できない。」
神が絶対であり、至高者であると信じるならば、その言葉を疑うということは論理的に不可能です。
至高者に関する宗教である以上、キリスト教は他の権威を設定せずに、徹底的な「循環論」にとどまり、徹頭徹尾「自己証明」によって成立しています。
つまり、「聖書は正しい。なぜならば、聖書は神の言葉だから。聖書が神の言葉であるということは、聖書が証明している。」という理屈なのです。
それに対して聖書を相対視する立場は、
「それは、盲信だ。自分の目で確かめなさい。」というが、
今度は、「自分の目」は絶対なのか?どうやって証明する?という疑問に答えなければならなくなります。
ヒューマニズムは、「いやあ、僕という個人の判断力が絶対だと言っているのではなく、人類全体の判断力について言っているのです」というのだが、そうなると、やはり、「人類全体の判断力は絶対なのか?」という疑問をつきつけられます。
経験主義による批判はこの点を問題視している。
つまり、「私個人にしろ、人類全体にしろ、人間の認識能力を基準にしてもよいのか?」と。
この疑問に対して人間はまだ答えを出していません。
カントが出したのは、「この世界で人間が判断してよしとしたものはよしとし、否としたものは否としよう。超越的な価値基準は無視しよう。」という「根拠なき自分勝手な決定」であって、「答え」ではなかった。
カント以降は、この出発点に立って人類は突っ走った。
「この世界は俺のものだ。それが俺のものだと証明できないが、とにかく、俺たちが考えてやりたいことをやるんだ。」と叫びながら。
だから、デカルト−カントの革命は、「バベルの塔」の革命なのです。
今や、この塔は崩壊しかかっている。ヴァン・ティルが提示したのは、この危機に対する対策としての、「聖書を認識の前提としよう」という聖書自身が主張している認識論です。
ラッシュドゥーニーは、ヴァン・ティルのこの認識論を土台として、「聖書律法による世界統治」を打ち出した。
しかし、ラッシュドゥーニーもヴァン・ティルとともに、「聖書を超えようとはしなかった」。
つまり、ヴァン・ティルは、「人間の認識は聖書から出発すべきである」と述べ、ラッシュドゥーニーも「人間の統治は聖書から出発すべきである」と述べた。
それゆえ、この2人は、デカルト−カントとちょうど対称的な位置にあると言えるでしょう。
一方は神を超越者にする思想であり、他方は人間を超越者にする思考です。
この世界が神によって創造された以上、神の言葉を絶対とし、そのパラダイムの中で循環論的に思考する以外に被造物でしかない人間には方法がありません。
人間の循環論が正しいのか、それとも、神の循環論が正しいのか?
これまでの問題をまとめるとこのように言えるでしょう。
2005年5月20日
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