キリスト教信仰とは能動的である
よくある誤解だが、キリスト教の信仰とは、受動的ではない。それは、能動的であり、それゆえ、感情とか感覚に依存しない。
内面の問題で悩むクリスチャンが多い。
かつて体験したすばらしい霊的体験が忘れられなくて、「それを今得られないのは、どこかで落ちたからだ、どうやったら戻れるのだろう」と考える人は、サタンの罠に落ちた人だ。
我々に与えられている命令とは、「すばらしい体験をすること」とか「すばらしい名誉や祝福を得ること」ではない。
我々に与えられている命令とは、「今の状態が最善である」と信じて感謝することだ。
体験や祝福を求めて彷徨したり、それが得られないから落ち込み、しまいには、「のろわれている」と考え、死をも求めるようになるならば、それは、完全に巧妙なサタンの罠にはまっている状態だ。
我々は、体験とか霊的な祝福、内面の充実などをいつも得られるわけではない。
それは、あくまでも祝福であって、それは神の一存で与えられるものである。
このような祝福を絶えず求める人は、会社に対して毎日ボーナスの支給を求めるような人だ。
祝福を神に命令できない。
神の主権を尊重する誠実なクリスチャンは、体験に頼らない。
本当のクリスチャンは、たえず能動的である。
罪を犯したら悔い改め、そして、その罪を忘れる。
なぜならば、悔い改めは、神がイエスにおいて設立された制度だからだ。
この制度を利用したあとで、「どうも罪が許されたと思えない」といったら、その制度を作った神を否定することと同じ罪だ。
我々は罪の悔い改めを聖書どおりに行ったら法的に許しが完了したと信じるべきだ。
そして、クリスチャンは、次の段階に進まねばならない。
それは、能動的に信じることだ。
人の評価、社会的評価、評判、うわさ、履歴、学歴、・・・そういったものとまったく無関係に、ただ聖書の規定にしたがって自分を評価し、自分に与えられた力を信じることだ。
外的な要素に左右されるのは、それは不信仰の罪だ。
状況がどうあれ、御言葉に頼ること。
これが本当の聖書的信仰である。
多くのクリスチャンが誤解している。
合理的なものを信じることを聖書では信仰と呼ばない。
たとえば、友人が「空に大きな鳥が飛んでいたよ」といった言葉を信じるのは信仰ではない。
「空に豚が飛んでいたよ」という言葉を信じることを信仰と呼ぶ。
非合理的、不条理、理不尽、そういった言葉を「ただ神の言葉という理由で信じる」こと。
アダムとエバは、聖書的信仰ではなく、合理的な信仰に頼った。
「食べるのに良く、目に慕わしく、賢くする」という合理的な理由で禁断の実を食べた。
それを禁じる神の理不尽な命令よりも、合理的、理屈に適ったサタンの命令に従った。
我々は、神の言葉に対しては、「無条件」で信仰しなければならない。
この信仰がないために、際限のない内面的悩みに巻き込まれるのだ。
20010年1月1日
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