的外れな司法改革


裁判員制度は、今の司法が、本当の問題を把握していないことを示している。

真の問題は、技術的な問題ではなく、司法制度の本質、目的にある。

この国の司法制度は、国民中心というより、国家中心なのだ。

殺人や傷害、窃盗の被害に遭った人間ならば痛感するだろうが、刑事裁判の中において被害者や被害者の家族は放置される。

刑罰を決定するのは国であり、被害者ではない。

どんなに被害者が償いを求めても、民事において以外に自分に償いはない。

禁固されても、そこにおいて被害者のために償いのための労働がなされるわけではない。

聖書の刑法は、被害者本人のためにあり、国家のためにはない。

被害者は、加害者の刑罰を決定できる。上限は、同じ損失である。

つまり、目を傷つけられたら目まで。歯を傷つけられたら歯まで。

被害者はこの上限の範囲で、刑罰を決定できる。

目を傷つけたら目を傷つけることも、それに相当する賠償金を受け取ることもできる。

永野会長殺害事件の犯人のように8年の刑で出てこれるならば、今回の小泉のように義賊を装った暗殺請負業が成立する。

故意の殺人者には一律処刑を適用しないと法治国家は維持できない。

国民は、暗殺者に怯えながら生きなければならない。

言論の自由はこういった義賊を偽装した殺人者が処刑されなければ維持できない。

被害者が刑罰を決定できるならば、被害者感情をある程度収めることができるが、そうでなければ、現在のように、まじめに暮らしている国民の間に不条理感が募っていく。

これは、国家の秩序維持にとって重大な問題である。

国の指導者は、こういった不条理感を放置してはならない。

いずれ様々な実力行使という形で噴出するからだ。

無政府状態は、こういった不満の小さな積み重ねによって徐々に進行する。

司法改革をするなら、まず国民の立場に立った司法制度に変えることを第一に考えなければならない。

 

 

2008年11月28日

 

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