教会はチェック機能を重んじるべきだ


天国とは死後に行くところだと考えている人が多い。

しかし、天国は現在入るところである。

現在天国に入っていなければ死後に入れない。

天国とは何かというと、キリスト契約である。

天国とは、キリスト契約に基づいて世界の所有者になり、キリストの相続物に与ることである。

キリスト契約とは、キリストを主と信じ、キリストが自分の罪の贖いを成し遂げ、復活し、昇天され、世界の支配者になられたと信じることによって入ることができる。

契約だから条件がある。条件を満たすことができなければその中に留まることができない。アパートの賃貸契約において、条件を守れなければ出て行かなければならないのと同じである。

その条件とは、律法への従順である。ここで注意していただきたい。

「律法遵守」が条件ではなく、「律法への従順」が条件である。

我々は罪人である以上、律法違反は避けられない。律法違反によって契約から追い出されるならば、誰もそこに居つづけることはできない。

我々が求められているのは、「律法への従順」つまり、「律法を守ろうと努力する姿勢」であり、「守れなかった場合に悔い改めて、キリストという犠牲を捧げ、赦しを請う」ということである。

だから、「律法への反抗、無視」は契約違反であり、追い出される。


ところが、それどころか、あなたがたは、不正を行なう、だまし取る、しかもそのようなことを兄弟に対してしているのです。
あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(1コリント6・8-10)

「御国を相続できない」とは、つまり、地獄行きということである。

今流行のディスペンセーショナリズムは、律法を無視してもよいと教える。「クリスチャンになったら何をしてもさばかれない。天国に行ける」と述べる。

しかし、聖書ははっきりと、「不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者」は、絶対に天国に入れないという。

教会は、キリスト契約の門である。

教会は、キリスト契約への入り口として、違反者をチェックしなければならない。

わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。(マタイ16・19)

洗礼、聖餐式とは、このチェックを行う場である。

律法に対してその人が従順であり、罪を犯した場合に悔い改める用意がある人であるかどうかをチェックしなければならない。

誰でも入れるということは、「神が拒絶した人を受け入れることになる」ので門の役割を果たしていない。

だから、「不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者」であることが分かれば、悔い改めるまで、洗礼や聖餐を拒む責任が教会にはある。

もしこのチェック機能をいいかげんにし続けるならば、神は教会の力を弱め、のろいを下される。

教会成長学の悪影響によって、今の教会は、牧師を人気商売のように、教会をスーパーマーケットの客引きのように考えているから、誰でもかれでも受け入れている。

洗礼を受けて長い間教会を休んでいる人をそのまま教会員として留めている。

キリスト契約が蹂躙されている。

現代の教会が尻すぼみなのは、やるべきことをやっていないからである。

 

 

2008年6月20日

 

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