「聖書を超えない」という原則を守れ
今の福音派や改革派における、異言や預言、奇跡の否定は、聖書から導き出されたものではなく、宇宙を「閉じられた系」とみる、現代科学思想に影響されたからだ。
彼らは、「今は直接啓示の時代ではなく、聖書が完結しているからそういったものは不要だ」という。
たしかに聖書は完結しており、聖書を超えた啓示などありえない。
しかし、「聖書を超えた啓示がない」ということは「聖書以外に啓示はない」ということを意味しない。
第一、聖書自身、「自然は神の啓示である」と述べている。
「怠け者よ、蟻を見よ」と。
蟻は、我々の怠惰を戒めるために与えられた生物である。
ちなみに、定年退職した後に奥さんに粗大ゴミ扱いされ、場合によっては離婚される男性がいるが、それは、自分が蒔いた種である。
定年退職した後に仕事をしなくていいという規定は聖書には存在しない。
動物を解体したりするため体力がいる祭司には定年があったが、彼らはその後も体力が要らない仕事をしなければならなかった。
その後隠遁してもいいとなど書いてない。
「六日働いてすべての仕事をせよ」という戒めは万人に適用される。
定年退職後の無為徒食は罪である。だから、仕事をするために成立する結婚関係に亀裂が生じるのは当然である。
我々は、一生がストレスとの戦いである。しかし、ストレスがなければ駄目になる。仕事をする上で生じる様々なトラブルと一生向き合わなければならない。それを回避することはできない。
さて、自然は啓示であるならば、どうして「聖書以外に啓示はない」といえるだろうか。
もちろん、聖書信仰の教会で自然は啓示ではないなどと教える教会はないだろう。
しかし、実際は、そのように考えている人が多い。
万物は神の自己啓示である。
そして、それは単に科学的に論証できる領域の事柄に限らない。
霊的現象は、科学では論証できないが、我々にとって啓示の一部だ。
たとえば、聖書では、夢によって神が人に示されたという記述が多数ある。
夢は、一つの示しであることがある。
すべてとは言わない。しかし、ある夢は神の啓示である。
福音派の傾向として、こういった教えは軽蔑される。夢を示しと捉える人は危険視される。
しかし、それを証明することはできない。聖書に「聖書啓示が完結した後は夢には啓示の意味がない」とどこにも記されていない。
牧師が講壇から語る教えは一種の啓示である。
説教の中で自分の秘密が扱われることがある。
誰でも「この先生は、どうして私の問題を言い当てたのだろう」と思ったことがあるはずだ。
神は時に応じて、我々に、牧師を通じてそのようなことを示される。
だから、預言や奇跡、異言を排除することはできない。
聖書において停止が宣言されていない以上それらの可能性を認めるべきだ。
ただし、条件がある。
「聖書を超えない」という。
夢や預言が聖書を超えているならば、それは偽預言だ。
だから、我々はすべてを無批判に受け入れてはならない。
預言は吟味せよ、と聖書にある。
吟味とは、人間の頭や常識で吟味せよということではなく、「聖書的かどうか吟味せよ」ということだ。
福音派や改革派があまりにも「科学的(本当は科学的でもなんでもないのだが)」になりすぎたために、超自然現象を捨てる傾向がある。
そのために、聖霊派が起きた。しかし、悪魔は聖霊派の中にニューエイジ、オカルトの霊を紛れ込ませ、聖書から引き離す結果となった。
「聖書を超えない」という原則を福音派、改革派、聖霊派のいずれも厳守すべきだ。
2010年6月28日
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