<Perter様>
面白い投稿がありました。ウイットネス・リー信条だそうです。彼らはこれまでの歴史信条が落としてきた真理を回復する教会だそうです。歴史は彼をどう評価するのでしょうか?
これから何かね、キリスト教の主流信条は、リー信条であるとなるわけか・・・。
ウイットネス・リー信条2006年版
一、われは、天地創造のただひとりの神が父・子・聖霊の区別される三格位にいますも、
しかしてわがために生まれしみどり子は御父であり、御子は手順を経て御霊となったことを信ず。
一、われは人の体がサタンの住居であり、わがうちにサタンがいまして、われに罪を行わせるも、罪なき聖なる御子は、サタンを御体の中に取り込んで、十字架につかれ、サタンを墓に残して復活され、昇天されたことを信ず。
一、われはキリストが命を与える霊、つまり聖霊となられて、我が霊の内に住まい、わが人間性と彼我神性を混ぜあわしめることを信ず。
一、われは教会がキリストの体であると共に、キリスト御自身でもあり、教会は神化され、肉において現れた神とされることを信ず。
一、われはキリストの体である教会は地方合一の立ち場に立つことのみが真正な教会であり、地方教会として正統性を持つことを信ず。
一、われは地方教会においてのみ正常な霊的生活を送ることが可能であることを信ず。
一、われは神の成分と人の成分が混ざり合わされて、人は神格を得ざると言えども、神となり、キリストとまったく同じ神・人となることを信ず。
一、われは神と人の混ざり合いの究極である新エルサレムが花嫁として、神の元からくだり、子羊との婚姻を行うことを信ず。
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<tomi>
「一、われは、天地創造のただひとりの神が父・子・聖霊の区別される三格位にいますも、しかしてわがために生まれしみどり子は御父であり、御子は手順を経て御霊となったことを信ず。」
聖書において、御子は御子、御父は御父、御霊は御霊であり、それぞれが互いに変化するなど聖書のどこにも記されていません。
それぞれは互いに契約を結び、一体となっているので、「御父が御子のうちにあり、御子が御父のうちにある」という相互内在を示すと思われる個所においても、それは、存在論的に一体となっているというわけではなく、契約的一体を表現したものだと考えるべきでしょう。
なぜならば、御父が御子のうちに内在し、それによって、存在論的に一体化しているのであれば、究極のところ、三位は固有の独立人格としては存在しないということになります。
三位の区別の消滅はすべて三位一体論の否定であり、それゆえ異端です。それは、サベリウス主義と同様に父子御霊という表現されているのは、一つの神格の変化であると主張せざるを得なくなってしまうのです。
「一、われは人の体がサタンの住居であり、わがうちにサタンがいまして、われに罪を行わせるも、罪なき聖なる御子は、サタンを御体の中に取り込んで、十字架につかれ、サタンを墓に残して復活され、昇天されたことを信ず。」
聖書はキリストがサタンを自分のうちに取り込んだなんてどこにも書いてません。
「神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」(ローマ8・3)
においてイエスの肉体は、「罪深い肉と同じような形」であって、「罪深い肉」ではありません。「同じような形」ということは、「人間の肉体と似ている」ということであって、「原罪を持つ人間の肉体と同じものを持った」ということではありません。
イエスの肉体には罪はまったくなかったのです。たとえ人間の肉体にサタンが宿っていたとしても、イエスの体にはそのようなことはありませんでした。
なぜならば、イエスは「悪霊を追い出す者」として来られたのであって、自らが悪霊やサタンを宿してしまえば、どうして追い出しができるでしょうか。
「サタンがサタンを追い出すことはない」のです(マタイ9・34-)。
「サタンを墓に残して」とありますが、サタンは「ほえたける獅子のように歩き回っている」とペテロは述べています。
サタンは、まだ活動しているのです。イエスの死と復活において完全死滅したわけではなく、神の許可のもとに活動しているというのが聖書の主張です。
「一、われはキリストが命を与える霊、つまり聖霊となられて、我が霊の内に住まい、わが人間性と彼我神性を混ぜあわしめることを信ず。 」
キリストは、復活後体をもち、その体は、魚を食することができたと聖書は教えているのですから、キリストが聖霊となって我々の霊のうちに住むなんてことはありえません。
むしろ、イエスは、ヨハネ福音書において「私が去らなければ助け主(聖霊)が下りません。それはあなたがたにとって益にはならない」とおっしゃっている。
この言葉から考えるならば、今、この地上において聖霊が活動しておられるのは、イエスが天におられる証拠です。
イエスは、契約的に、聖霊において臨在されることはあっても、存在論的に我々のうちに内在されることはありません。
「人間性と彼我神性を混ぜあわしめる」などということはありません。
人間は神ではありません。神の性質を人間が帯びることはありません。
聖書において、聖化されると述べられているのは、「神に似る」ということであって、「神の性質を帯びる」ということではありません。
こういった神との混在は、汎神論であり、聖書の教えではありません。
聖書は、神と被造物がまったく別の存在であり、たとえクリスチャンが救われてイエスの御体である教会に加えられたとしても、クリスチャンがキリストに変化したわけではありません。
聖書を見ると使徒たちが奇跡を行って礼拝される場面がありますが、そういった場面において必ず彼らは「やめてください。私たちはあなたがたと同じ人間です」と制止します。
御使いも同じように礼拝されることを拒否しています。
これは、聖書において、被造物が神に転化することが絶対にないと教えられていることを示しています。
「一、われは教会がキリストの体であると共に、キリスト御自身でもあり、教会は神化され、肉において現れた神とされることを信ず。」
これに対しても、我々は、「被造物が神化されることは絶対にない」ということを確認しなければなりません。
一、われはキリストの体である教会は地方合一の立ち場に立つことのみが真正な教会であり、地方教会として正統性を持つことを信ず。
意味不明。
一、われは地方教会においてのみ正常な霊的生活を送ることが可能であることを信ず。
これも意味不明。
一、われは神の成分と人の成分が混ざり合わされて、人は神格を得ざると言えども、神となり、キリストとまったく同じ神・人となることを信ず。
キリストのみが神人であり、それ以外に神人はいません。
たしかに、クリスチャンには聖霊が内在されていますから、内側に神がいらっしゃるということはありますが、しかし、我々の本質が神に転化したわけではありません。
あくまでも、別の存在が我々のうちに内在しておられるということであり、混ざり合っているのではありません。
一、われは神と人の混ざり合いの究極である新エルサレムが花嫁として、神の元からくだり、子羊との婚姻を行うことを信ず。
新エルサレムは神と人とが平和のうちに住む場所であり、混ざり合った存在ではありません。
我々が神と一致するのは、契約的にです。
キリストと教会は夫婦であり、夫婦が存在論的に混ざり合わないのと同じように、キリストと教会も混ざり合いません。
キリストと教会は、それぞれ別個の存在であり続けます。夫が死ねば妻が同時に死ぬというようなことがないのと同じように、夫と妻は別々の人格であり、存在です。
神と人とは別々の存在であり、混じり合って一つの存在になるというようなことはありません。
このような汎神論を我々は拒否しなければなりません。
キリストと教会は一体となりますが、それは、契約的になのです。
結婚が契約的一体を実現するように、キリストの十字架による和解は、キリストと教会の契約的一体を実現しました。
存在論的に、神と被造物が混在し一体となるようなことはありません。