犯罪者を憐れむな
1988年に起こった女子高生コンクリート詰め殺人犯がまた事件を起こしたそうだ。
あの極悪の犯罪を犯した人間が今、釈放されて世間で自由に暮らしているということそのものが異常である。
何の落ち度もない女性を監禁して、ライターで手足をあぶり、殴り殺したことだけで、死刑に値する。彼らはこの世に存在してはならないのだ。
それを今の「犯罪者へのあわれみに満ちた」司法は、死刑にせず、釈放したため、新たな被害者が生まれた。
犯人は、被害者を同じように監禁して、「おれは人を殺したことがある」「罪を軽くする方法を知っているからすぐに出所できる」と述べ、女性を虐待し殺害したことをまったく反省していない言葉が出てきたという。
「教育刑」は幻想である。
聖書には「教育刑」の概念はない。あるのは「償い」だけである。
「いのちにはいのち」である。
故意の殺人は、いのちによって以外にいかなる手段によっても償うことはできない。
日本の司法は、こうやって犯罪者に隙を見せているので、犯罪者に舐められているのだ。
最近の判決を見ると、人間を一人殺しても、死刑にはならず、複数連続殺人すると死刑になるようだ。
ということは、司法は、「犯罪者の命は、複数の遵法的市民の命と等しい」と告白しているのと同じである。
これで、秩序が崩壊しないわけがないではないか。
サルを保護すれば、サルは増える。
犯罪者を保護すれば、犯罪者は増える。
今日の秩序破壊の元凶は、「犯罪者への憐れみ」にあるということを国や国民は理解すべきだ。
2004年7月30日
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