用いられるためには試練は避けられない


三菱自動車のパジェロが立て続けに2台自然発火した。
最近、リコール隠しが頻繁に暴き出されている。
「隠されたものは暴かれる」運命なのだ。

会社勤めをしていると、いろいろヤバイことをやらなければならない場合がある。そんなに大きな法律違反はできないだろうが、小さなものはやらないと仕事にならないことがある。これは仕方がないこともあるだろう。国の法律は絶対ではないのだから。

しかし、この三菱の場合は、そういった「やむをえず」というレベルを超えている。とくに車という安全に関わることを国民に隠していたというのはあきらかに重罪である。それによって実際に死亡者が出ているわけだから、言い訳できない。

神は時を定めておられて、罪を暴く時期を待っておられる。その前に悔い改めれば暴かれないが、しかし、頑固に悔い改めないと、罪を暴いて処罰する。

これが、神の歴史内的審判である。

ディスペンセーショナリズムが教会に広がってから、クリスチャンの常識は、「歴史内において裁きはない」というものだが、しかし、これを証明できる個所は聖書に存在しない。

もし歴史内を「神の裁きの及ばない領域」とすれば、必然的に「この歴史の主は神ではない」ということになる。

「裁くお方」を「主」と言うのだ。主から裁きを取り去れば、それは主ではない。

だから、主は歴史内においても、裁きを実行される。

この裁きがあるからこそ、ポスト・ミレを主張できるのだ。

ポスト・ミレとは、この歴史が「千年王国」であると主張する立場である。つまり、今我々が生きているこの歴史の主は、キリストであり、この世界は、キリストの王国なのだ、と説く。

ディスペンセーショナリズムは、千年王国は未来にある、という。それゆえ、今の世界はキリストの王国ではないわけだ。むしろ、サタンの国であるとすら言う者もいる。

しかし、キリストは、弟子達に「私は天においても、地においても、一切の権威が与えられた」と宣言された。すなわち、「私は王だ」と宣言された。

キリストがこの世界の王であるので、キリストは罪を処罰する。罪を犯したものに正当な報いを与えられる。

よく類似した事件は立て続けに起こることが多い。今回のパジェロ発火もそうである。飛行機事故は連続する。

私は、これを偶然とは見ない。我々の背後にある霊的世界における戦いや、働きが表面に出てこのような偶然とも思える出来事が続くのだと思う。

不思議なことだが、犯罪の現場に遭遇すると、その時間、その場所がまったくこの世界の次元とは違うような気持ちがする。その空間がまったく異次元のような感じがするのだ。そして犯罪者を見ると、明らかに別の世界の実体を見ているようだ。霊の影響を受けているからだろう。

私の直感だが、恐らく、こういった犯罪者というのは、神の許可を受けて解き放たれた悪霊に憑依されて、悪霊がやりたいことをやらされているのだと思う。だから、異次元のような空間が出現するのだと思う。

聖書にはいくつか「神からの悪霊」という表現が出てくる。

神は、あくまでも頑固で悔い改めない人間のもとに「惑わしの霊」や「破壊の霊」を送られることがある。

神は自らは罪を犯されないが、罪を犯す悪霊の欲望を解放され、罪が実現するようにされることがある。

これこそが、類似事件の続発の理由である。

神は、サタンにヨブを試みる許可をお与えになった。

「サタンは主に答えて言った。『ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼と、その家とそのすべての持ち物との回りに、垣を巡らしたではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地にふえ広がっています。しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。』
主はサタンに仰せられた。『では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。』そこで、サタンは主の前から出て行った。」(ヨブ1・10-13)

それに続いて起こったことを見て欲しい。

「ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、使いがヨブのところに来て言った。『牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。』
この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。『神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。』
この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。『カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。』

この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。『あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。』」(ヨブ1・13-19)

「降れば土砂降り」ということわざにあるように、不幸は連続して起こる。

もしこの世界に神がおらず、また霊的な存在もいなければ、なぜこのような偶然事が連続して起こるのだろう。

明らかにこの世界は神がコントロールしておられるのだ。神はなんらかの理由で、悪霊が人に対して攻撃することをお許しになる。

その場合は、土砂降りになる。

試練の時は、だまってそれが過ぎ去るまで待つ以外にないかもしれない。神は何らかの教訓を与えるために、人間をサタンにさらされる場合があるのだ。しかし、そこには制限がある。

神は、サタンに対して「ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」と制限を設けられたので、ヨブは命だけは守られた。

我々の体験する試練は、神の許可の中で起こるのである。

試練は永遠には続かない。神がよしとされたときまで辛抱する以外にはない。しかし、試練とは「神様、もう分かりましたからやめてください」といってもなお続くことが多い。

徹底して教訓を体に染み付くまで教えるためなのかもしれない。

ヨブは最後に神の偉大さを悟った。試練によって鍛えられて、さらに祝福された信仰者になり、祝福は2倍になった。

持ち物は2倍になったが、子供たちだけは2倍にならなかった。それは、子供たちが天にいるからである。天にいる子供と地上に新たに生まれた子供で2倍になった。

試練の目的は2倍の祝福を与えるためである。試練を経ることによって、クリスチャンはさらに神に用いられる姿に変わる。

「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」(ヨハネ15・2)

用いられるためには、試練は避けられないのである。

 

 

2004年7月1日

 

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