ユダヤ人がキッパという小さな帽子をかぶるので、それをまねて礼拝において帽子をかぶる男性をときどき見かける。
しかし、聖書では、礼拝において男性が帽子をかぶることが禁止されている。
男が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていたら、自分の頭をはずかしめることになります。
男はかぶり物を着けるべきではありません。・・・(1コリント11・4、7)
女性は、庇護のもとにあるから、短髪の場合、かぶり物をつけるべきだ。
しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。
女がかぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭をそることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。(1コリント11・5-6)
しかし、女性にとって長髪はかぶり物だからつける必要はない。
髪はかぶり物として女に与えられているからです。(1コリント11・15)
長髪と帽子は、いずれも庇護を象徴する。
だから、男性はつけるべきではなく、女性はつけるべきだ。
これは、祈りや礼拝をする場合の話だ。普段の生活のことを言っているのではない。
現在、ユダヤ人がキッパーをかぶって祈っているのは、明らかに御心から離れているからだ。
ウクライナ・オストログのデイビッド・ハレヴィ・セガルは、「ユダヤ人は、頭の覆いを取るべきではない。それは、クリスチャンと区別するためだ。とくに、祈りの間は。」と示唆した。(Wikipedia--Kippah)
礼拝時において、男性が帽子や頭に何かをかぶることは、長髪と同じで恥ずべきことである。
男性は、統治者である神の似姿である。
男は神の似姿であり、神の栄光の現われだからです。(1コリント11・7)
とくに壮年の男性は、社会を統治する年齢であり、それゆえ、庇護の象徴である長髪や帽子などをつけるべきではない。
キリスト教が象徴を軽視するようになって、様々な間違った習慣が教会に入り込んでいる。
アメリカで、クリスチャン男性がピアスをしているのを見た。
しかし、ピアス(刺し通す)は、奴隷の象徴である。
しかし、もし、その奴隷が、『私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。』と、はっきり言うなら、
その主人は、彼を神のもとに連れて行き、戸または戸口の柱のところに連れて行き、彼の耳をきりで刺し通さなければならない。彼はいつまでも主人に仕えることができる。(出エジプト記21・5-6)
聖書における奴隷は、異邦人の奴隷制度とは異なり、相続権が与えられており、家族の一員であった。
しかし、統治者ではないわけだから、ピアスをしている男性は、自ら「私は統治者ではありません。統治者としての神の似姿にはなりたくありません」と告白しているようなものだ。
我々が、男性のピアスに違和感を感じるのはこういった象徴を神が重視し、我々の本能の中にそういう意識を与えておられるからだろう。
クリスチャン男性は、統治者なのだ。
とくに壮年男性は。
だから、統治者にふさわしくない服装や髪型などは控えるべきだ。
そして、もっと重要なことは、「我々は統治者ではない。将来そうなるだろうが」というディスペンセーショナリズムの千年王国説を採ってはならないということだ。
キリストと契約を結んだ人々は、キリストと一体であり、キリストが現在王であると宣言された以上、我々も統治者としての自覚を持たねばならない。
我々を無力・非力なものとして描くあらゆる思想を拒絶すべきだ。
我々クリスチャン壮年男性は、自意識を完全に聖書によって変えるべきだ。