私の政治制度改革案2
聖書を貫く、社会制度観は、一貫して「個人と家族中心」である。神はアダムとその家族に支配権を与えられた。
国とは、この個人と家族の支配権を支えるための維持装置である。
しかし、ヒューマニズムが支配思想となった18〜19世紀から国家中心の制度観が世界の常識となった。
個人のために国家があるのではなく、国家のために個人があるという考えに変わった。
日本も明治維新により欧米の社会制度を導入する中で、この国家中心主義を取り入れた。
天皇は、この国家主義のために利用された。国家主義者たちは、国民を利用して、覇権を求め、徴兵し、侵略した。
戦後、アメリカの民主主義の導入により、ある意味で民中心の考え方が入ったが、しかし、旧い官僚制は残り、国家主義の亡霊は生きつづけている。
今陪審員制度が始まろうとしているが、ナンセンスである。
問題は、裁判官が判断することにあるのではなく、国が民の権利を妨害しているというところにある。
裁判は国のために行われ、被害者の利益補償のためにではなく、国の理念のために判決が下されている。
強盗障害事件ならば、被害にあった人間にとって毒にも薬にもならない禁固刑ではなく、賠償のために収容先で強制労働をさせ、その収益をもって償いをさせるべきだ。
聖書では、刑罰は、被害者が決定できる。国はその決定に基づいて被害者の意思を実行する。
国は、国民の利益を守るための装置なのだ。
この理念に徹すれば、今のような湯水のように税金を使う放蕩国家は出現しない。
今の国家を作り上げたのは、マルクスの性善説である。
労働者を代表する人々がやれば間違いない。彼らに金を持たせて、分配させよう。そうすれば、利益が国民に均等に分配されるだろう。
というユートピア主義に基づいている。
しかし、ソ連の実権が失敗に終わったことからわかるように、この性善説国家観は間違いであることが明らかになった。
人間は堕落している。だから、人間に信頼する体制ではだめだ。
人間を信頼しないシステムがよい。それは、市場競争主義だ。
質の悪い商品、だらけたサービスは、市場の審判によって排除される。
マルクスの平等主義は、間違った平等主義である。
それは、努力した人も、努力しなかった人も平等に受ける体制である。マルクスは努力を重視するようなことを言っているが、実質的な内容は、結果の平等主義である。
聖書が教える平等主義とは、努力し、工夫した人が繁栄し、怠けた人が没落するという平等主義である。
がんばった人も、怠けた人も平等に扱うのは不公平である。
だから、努力を結果という形で公平に評価する市場競争制度がよいのだ。
この体制を徹底させられるかさせられないかによって、日本の将来が変わる。
今の社会主義体制を一刻も早く閉め、市場競争主義に切り替えられるなら、日本は復活するだろう。
しかし、族議員だの利権だのにひきずられてずるずる今のようにやっていると、第3世界に舞い戻る。
今、決断力のないリーダーはいらない。
まず理念をきちんと持て。何が原因か知れ。どうしたらよいかよく考えろ。
そして、結論を得たら、迷わず実行せよ。反対者をものともせずに突き進め。
こういった優秀なリーダーが出てくることを願おう。
今の政治家で日本を、祖国を本当に愛している人間はいない。
自分の個人的な利権のために、自分の国が破滅してもなんとも思わない人間ばかりだ。
祈ろう。
2008年2月7日
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