正しい異言とはどのようなものか?2


最近の異言というものを強調する教会に違和感を覚えるのは、それが本当の異言ではないからだと思う。

異言とは、「バベルの塔の呪いからの解放」である。

つまり、「世界統一政府の実現に対する神の妨害」から解かれたことのしるしである。

世界の言語は、それぞれの語族の起源をたどるとそれぞれある共通の祖先がある。

しかし、その先には共通の祖先はないそうだ。つまり、ある程度まで先祖探しはできるが、あるところまで来ると、互いに関連性を認められない。

実際、ロシア語とギリシャ語は、非常に似ている。

神学校でギリシャ語を1年やったが、すらすら覚えることができた。翌年から授業を担当させられたくらいだ。

しかし、ヘブライ語はまったく異質な言語だった。英語ともロシア語ともギリシャ語とも日本語ともまったく違う。

アラビア語をやった人にとっては簡単だという。

発想の方法がまったく異なる。

日本人が英語を学ぶことに難渋するのは、言葉の体系がまったく異なるからだ。

関係代名詞という概念が日本語にはなく、まったく異質であるため教えるのに一苦労する。

しかし、ロシア人に英語を教えたことがあるが、驚くほどすらすら頭に入る。

言葉を置き換えるだけですむ。

このことから考えると、ある歴史上の一時点において、言葉が決定的に乱されたことが推測できる。

バベルの塔の呪いによって、人々はまったく異質な言語に分断されたからであろう。

言葉が乱れることによって、人々は、分散するしかなかった。

一つにまとまって神に対抗しようとしたが、かえってばらばらにされた。

もし神に敵対しようとしなければ、人々は一つにまとまっていたことだろう。言葉も一つだっただろう。

神によって救われ、神と和解した人々、つまり、クリスチャンにとって言葉の乱れは不要だ。

だから、クリスチャンの間では意思疎通ができるように、神は聖霊を与えられる。

聖霊は、クリスチャンの間の障壁を取り去られる。

その一つの象徴が異言である。

だから、異言があるところに聖霊があるはずだ。

しかし、今、異言を唱える教会を見ると、とても神を敬い、聖霊を尊重しているとは思えない。

礼拝中、動物の鳴き声でないたり、突然脈絡なく笑い出したり。

聖書では、「預言は預言者の意思に従う」と述べられている。

しかし、突然笑い出してそれが止まらないというのは、それが聖霊から出ているのではないということを示している。

聖霊を尊ぶ教会の集会で「聖書を学ぶと暗くなります」と演者が述べていた。

聖霊を尊ぶ人が聖書を軽んじるとはどういうことだろうか。

聖書を記したのは聖霊である。

だから、聖霊を尊ぶならば、聖書を尊ぶはずだ。

聖書研究をするはずだ。

しかし、逆だ。

これはその聖霊というものが、別の霊であることを示しているように思われる。

そして、その異言は、聖霊によるものではないとも思う。

 

 

2010年6月26日

 

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