予定論と運命論


先日、先生に既存の権威を敬い、まず自分があわせるべきだ
というコメントをもらいました。さっそく実践したら
効果がすごくあり前あった嫌気も消えました。
どうやら自分は律法の本質である愛を忘れてたようです。
完璧に課題をこなす事だけが頭にありお互いの関係をよくすることは頭の中をあまり占めていませんでした。
先生の助言のおかげで初心に返り教会生活をこれから頑張ります。ありがとうございました。


よかったですね。
祈っています。


今回一つ質問があります。
予定論と運命論は何が違うのですか?
予定論は神が被造物の未来を
既に知っていて予定していること。

運命論は異教的な未来思考で
人の運命は決まっていてそれを知ることができる。
それは運命だから絶対に変えることはできない。
悲観的になる。
こんな感じですか?


聖書によれば、神は絶対者であり、何にも影響を受けません。
予期せぬことが起こってあわてるということもありません。
神は徹底的に能動的であり、すべてのことを、ご自身の至高の意志によって能動的に決定されます。
だから、悪が起こる場合にも、その悪が勝手に起こったということではなく、神が起こるのを許可したのです。
神の許可なしで起こることは何ひとつありません。
すべてが神の手を経由してきます。

予定論も運命論も同じようにすべて決定されていると信じます。
聖書的予定論は、神の勝利、教会の勝利、超歴史的だけではなく、歴史的にも神と教会は勝利すると信じます。
運命論は、聖書の神を前提としませんから、そのような勝利があるとは必ずしも信じません。
だから、楽観的になる場合もあるし、悲観的になる場合もある。

人間の努力との関係では、予定論は、結末はわかっているが、中途はわからないので、人間の努力を奨励します。人間は、神の側に立てば必ず成功するという結末が決定されていますが、その中途では様々な障害や挫折を経験するかもしれない。短期的に見て成功を約束するものではないが、長期的に見て、つまり、神の計画という長期的な視点に立てば必ず成功する。
しかし、運命論は、結末が決まっているのだからやっても無駄だと考える傾向がある。人間を努力と希望に向かわせず、あきらめを奨励する危うさがある。


それと神が予定される神であることは信じますが
それでは人間が罪を犯すことも予定されていたはずです。
なぜ、そうであるにもかかわらず人間を作ったのでしょうか?
やはりそのことも神の栄光を表すことであり
そもそもこの質問文自体が人間の目線からの見方であり
ナンセンスなのでしょうか?

人間が罪を犯すことをあらかじめ神は許容されたのです。
では、なぜ許容したのか、というと栄光を表すためです。
人間をご自身の御子を犠牲にしてまで愛する方であることを被造物のまえで明らかにすることによって、神はご自身の属性をいかんなく発揮されます。

 

 

2009年12月2日

 

ツイート



 ホーム

 



millnm@path.ne.jp