理屈を重視すべきだ


妹の息子が高校生英語ディベート大会で優勝し、アテネの世界大会に参戦したが残念ながら2回戦で敗退した。

http://www.townnews.co.jp/020area_page/03_fri/01_kama/2009_1/02_13/kama_top2.html

なにせ英語圏からも来るから英語を母国語としない日本人は、例年太刀打ちできないようだ。

もう一つ、一般に、日本人はディベートが苦手である。

そういう文化がないからである。和をもって尊しとなす、という国是のようなもので縛られている。

このディベート下手、論理を重んじない気風が、すぐに教祖に騙されて人間崇拝する原因である。

ある集団が形成されると必ずリーダーは教祖になる、または、教祖にされる。

ファンはびったりと講壇の周りに張り付く。

「理屈に合わないことは徹底して追求し、そして、駄目だと分かったら排除する」という姿勢は、クリスチャンには絶対に必要な資質である。

なぜならば、キリスト教は、「信条の宗教」だからだ。

信条とは、「分ける」ものである。

真偽を峻別するために作られたものだ。もちろん、聖書に基づいて。

御言葉は、剣よりも鋭い識別用の武器である。


神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4・12)

真偽をえり分ける最高の道具こそが、御言葉である。

だから、御言葉以外を基準として持つことは、「盲目」になることを意味する。

御言葉を拒否する人々は、ことごとく識別力を失う。

だから、サタンに容易に騙される。

陰謀論者として非常にするどい識別力を持つと思われる人々でも、キリスト教を攻撃し始めている。

まんまとサタンの策略に乗ってしまったわけだ。

彼らも知らず知らずのうちに、クリスチャンを迫害する側に回るのだろう。

このようにして、最終的には、自分たちが倒した相手によっていつのまにか再び奴隷化されるということになるのだ。

聖書を識別の道具として用い、理屈に合わないこと、不合理、非科学的、オカルト、迷信、異端そういったすべてのことを、するどく峻別すべきだ。

我々日本人は、理論を重んじず、情緒に流されやすいため、国際社会で損ばかりしている。

いつのまにやら、敵の策略に乗せられて戦争をやらされ、原爆を落とされ、国土を焦土化され、しまいには、世界の悪役のレッテルを貼られた。

我々は、理屈を重視すべきだ。

 

 

2009年2月21日

 

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