社会主義教育の弊害
金八先生のような学園ドラマが有害なのは、「先生は生徒の私生活まで面倒を見るべきだ」という常識を流行らせるからだ。
教師の職責は「教えること」である。「世話をすること」ではない。
「世話をすること」は、親の責任である。
現在の国家主義の義務教育では、責任分担の境界線がずれる。
公務員がどんどんと家庭の領域に食い込む。
「国の世話になる」ことに慣れると、親の監督・世話能力が減退する。
自立心が失われ、ついには無能になる。
温室で育てた草花が、厳しい外界の環境で生育できなくなるのと同じだ。
義務教育制度を含め、福祉国家制度は、我々から自立心を奪い、生活能力を奪う。
間違った要求は、牧師にも向けられる。
牧師の職務は聖書に関して「教えること」と「世話をすること」である。
世話をするといっても、生活の事細かな事柄について具体的に事柄に代役として介入することではない。
個人や家庭の内部に関する管理責任は家長にある。
牧師ができることは、指針を示すことに留まる。
聖書を実生活に適用することについて助言するに留まる。
そして、それを行ったら職責を果たしたことになるから、信徒はそれ以上を求めてはならない。
「愛がない」などという批判は通用しない。
聖書の具体的な適用について指針を示したならば、それを実際に適用するのは個人であり、家長である。
境界線を越えることによって、個人や家長は腑抜けになる。
べったり依存する信徒を作り出すことが牧師の職責ではない。
社会主義、国家主義教育の弊害が、牧師への非聖書的な要求につながっている。
2010年7月30日
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