心神耗弱状態にあった犯罪者の罪を免じる社会は十字架を否定する社会である


ショッピングセンターでの幼児殺害事件の犯人は、「殺せ」という幻聴を聞いたと語っているという。

精神に障害があるなどして、心神耗弱状態で犯した罪については、責任が免除されるという悪法によって、一般の遵法的な市民と社会は危険にさらされている。

犯罪を犯してもある条件があれば責任を問われないという法律は悪法である。

なぜならば、それは、創造の摂理に違反しているから。

罪には「必ず」責任が伴う。

神は、バランスを大切にされるかたである。神は、一方が偏ったままで事を終わらせられない。

完全密閉した空間において、一部にエネルギーが偏って存在し、時間とともにそのエネルギーが全体に拡散しても、エネルギーの総量は変わらない。

もしその空間のエネルギーの総量が減ったり増えたりしたならば、外部にエネルギーが逃げたか、外部から入ったか以外に考えられない。

方程式の左辺に1を加えれば、右辺にも1を加えなければならない。

誰かから金を借りたら、返さなければならない。

誰かに害を与えたら、弁償しなければならない。

ご覧のとおり、モーセ律法の原則は、平衡にある。

罪は神に対する借金である。そして、その借金は支払われるまで永久に残る。

神は、平衡状態を徹底して追求される。神は、一方が傾いたままで満足されるかたではない。天秤が完全に水平にならない限り「絶対に」満足されない。

イエス・キリストを十字架において処刑されたのも、この「平衡へのこだわり」からだ。

もし神が、バランスシートの帳尻が合わなくても平気な方であるならば、自分のひとり子を十字架にかけるようなことはなさらなかっただろう。

なぜこのような大きな犠牲が必要だったのか?

それは、神は、理由なく人を許すことができないからだ!

1000円の損失を与えたら、1000円弁償しなければならない。

1立方メートルの穴をあけてしまったら、1立方メートルの土砂でそこを埋めなければならない。

罪を犯したら、それと同等の償いをしなければならない。

これによって、神と人、人と人とは和解ができる。

神は、償いをしない人間と和解することはできない。

「そんな堅い事言わないでくださいよ」なんて言えない。

もし神が理屈に合わない許し方をする方であれば、キリストの十字架はまったくの無駄になる。

神は絶対者であり、理屈にあわない許し方をしたら、神ではなくなる。神が完全であり、「闇が少しもない」方であるならば、完全に合理的でなければならない。

我々の罪が許されたのは、キリストが我々の罪の償いを代わりにしてくださったからだ。それによって、我々の負債は完全に帳消しになった。

この弁償がない限り、人間は神と「絶対に」和解できない。

神が神でありながら、しかも、人間を許すには、キリストの十字架の死による償い以外に方法はなかったのだ。

それゆえ、我々が作る法律は、この神の平衡の原則にのっとったものでなければならない。

神が完全な償いを要求し、理屈に合わない許し方をしない方であるならば、人間が作る法律もこの原則に従うべきである。

つまり、「罪を犯した者は、その罪に見合った償いをなし、平衡を取り戻せ」と。

過失によるのではなく、故意に人の命を取る者に対する刑罰は死刑以外にはありえないのがお分かりだろうか。

目には目、歯には歯。人の命には命。

これでバランスが取れる。

心神耗弱の殺人者の責任を免除し、その結果、加害者と被害者の間にバランスを回復させない国家は、バランス回復を目的としたキリストの十字架を否定する国家である。

そして、被害者に残された損害と傷は放置され、そこからおびただしい血が流れ、それが社会全体の体力を奪い、病気にしていくのである。

 

 

2005年2月5日

 

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