律法はいのちを与えないか?19
メルキゼデクについては、ヘブル書の文脈は、彼がイスラエル民族の登場の前の人物であり、レビ人ですら、アブラハムを通じて十分の一を捧げた人物であると述べられています。つまり、民族的経綸が始まる前の祭司である。
そして、キリストは、「メルキゼデクと等しい祭司」と呼ばれており、超民族的経綸における祭司であると述べられている。
具体的に、レビからメルキゼデクに経綸がどのように変わったのかを見てください(7章−10章。下記注の対比表を参照)。
このヘブル書の対比表で述べられている変化を見る限り、
レビ系――型
メルキゼデク系――本体
であり、メルキゼデク系において律法がまったく別のものになったのではなく、それがレビ系律法の成就型であったことが分かります。
そして、さらに、そのメルキゼデク系律法の聖所とは、「まことの天」になった。つまり、民族的幕屋が、宇宙大の意味を持つようになった。
私が民族から超民族になったと述べるのは、ここに根拠があります。
つまり、レビ系の聖所が民族的・地域的な幕屋であったのに対して、イエスが入られた幕屋は普遍的・宇宙的な天そのものであった。
これゆえに、旧約聖書の経綸は民族的で、新約聖書の経綸は超民族的というわけ方ができるのです。
<注>
レビ系 |
祭司になるのは、肉についての戒めである律法によって |
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メルキゼデク系 |
祭司になるのは、朽ちることのない、いのちの力によって |
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レビ系 |
弱く無益なため廃止された(律法は何事も全うしなかった) |
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メルキゼデク系 |
さらにすぐれた希望が導入される。これによって神に近づく。 |
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レビ系 |
誓いなしに祭司になる |
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メルキゼデク系 |
神による誓いによって祭司になる |
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レビ系 |
祭司は大勢、寿命がある |
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メルキゼデク系 |
祭司はひとり、永遠の祭司 |
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レビ系 |
不完全な救いしか提供できず |
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メルキゼデク系 |
完全な救いを提供できる |
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レビ系 |
罪人の祭司、自分の罪、民の罪のため毎日犠牲を捧げる |
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メルキゼデク系 |
きよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、天よりも高くされた大祭司。一度でいけにえを完了。 |
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レビ系 |
祭司は人間が作った幕屋で奉仕 |
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メルキゼデク系 |
主が作られたまことの幕屋で奉仕 |
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レビ系 |
天にあるものの写しと影に仕える祭司 |
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メルキゼデク系 |
天にある実体に仕える祭司 |
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レビ系 |
欠けのある契約の仲介者 |
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メルキゼデク系 |
さらにすぐれた契約の仲介者 |
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レビ系 |
その当時のための比喩。新しい秩序の立てられる時まで課せられたからだに関する規定にすぎない幕屋。 |
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メルキゼデク系 |
手で作った物ではない、さらに偉大で完全な幕屋。キリストは、すでに成就したすばらしい事柄の大祭司として、これを通ってまことの聖所に入り、ご自身の血を捧げ、永遠の贖いを成就された。 |
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レビ系 |
やぎと雄牛の血、雌牛の灰によるきよめ。清めの働きをして肉体をきよいものにする |
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メルキゼデク系 |
とこしえの御霊によって神におささげになったキリストの血によるきよめ。良心を清めて死んだ行いから離し、生ける神に仕える者とする。 |
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レビ系 |
聖所は、本物の模型。 |
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メルキゼデク系 |
聖所は、天そのもの。 |
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レビ系 |
年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司 |
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メルキゼデク系 |
世の終わりにただ一度ご自身をいけにえとして捧げたキリスト |
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レビ系 |
礼拝者は、罪を年ごとに思い出す。神に近づく人々を完全にできない。罪を除き去ることができない。神は礼拝者の罪を思い出す。 |
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メルキゼデク系 |
礼拝者は、罪を年ごとに思い出さない。一度の犠牲によって完全に聖なる者とされる。神は礼拝者の罪を二度と思い出さない。 |
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レビ系 |
聖所は、本物の模型。 |
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メルキゼデク系 |
聖所は、まことの聖所。 |
2005年10月17日