象徴学はなぜ重要なのか? By デイビッド・チルトン
聖書において象徴学はなぜ重要なのか? 偉大なオランダ神学者ヘルマン・バーヴィンクは著書『神の教理』の中においてこのテーマについて詳しく述べている(Herman Bavinck, The Doctrine of God, William Hendriksen, trans. (Edinburgh: The Banner of Truth Trust, [1951] 1977).)。
聖書に記されている神の「象徴的な」御名について、彼は「聖書にはいくつかの擬人化表現が含まれている、というだけではない。むしろ反対に、聖書『全体』が擬人化表現なのだ・・・。
それゆえ、神がご自身に付けられ、我々にそのように呼ぶように命令された名前はすべて、この地上の人間間の関係に由来するものなのである。」(p.86)、「神の威厳と高貴な御性質について知らしめるために、神の御名は、あらゆる種類の被造物、生物、無生物、有機物、無機物から取られている。」(p.88)と述べた。
また、実際、「擬人化表現を用いずに神について語ることはまったく不可能である。我々は神をご自身のうちには見ずに、その御業のうちに見るのである。我々が神の御名をお呼びする時に、我々は、神がその御業のうちにご自身を啓示されたその啓示の方法に依存するのである。
少なくともこの地上において、我々が神を真正面から見ることは不可能である・・・。そのため、誰でも擬人化表現に反対する者は、原理的に、神が被造物のうちにご自身を啓示されることがあるということを否定するのである。」(p.91)とも述べた。
さらに、「人間にとって選択肢は2つしかない。神について完全に沈黙するか、それとも、人間的な方法で神について語るか。不可知論(つまり、理論的な無神論)に陥るか、それとも、擬人化表現に頼るか。」(p.92)と語った。
このように、象徴学は避けられないのである。聖書を学ぶには、象徴学を学ぶ以外にはない。・・・
バーヴィンクは、発言の中で2つの重要なことを述べている。
1. すべての被造物は象徴的である。
すべての被造物は、神の栄光を反映しており、神の属性の一面を象徴している。神のご人格は、創造されたすべてのものに刻印されている。万物の最も重要な価値は、それが神を象徴しているというところにある。それ以外は、すべて二次的な価値である。
人間は神の主要な象徴であり、(個人としても、集団としても)神の象徴中の象徴である。それゆえ、万物は人間をも象徴しているのである。万物は、神と人間を啓示しているのである。(象徴学の重要性について詳しくはJames B. Jordan, “Symbolism: A Manifesto,” in The Sociology of the Church (Tyler, TX: Geneva Ministries, 1986). を参照せよ。)
2. 象徴学は類推的であって、実物的ではない。
この点において聖書の象徴学は、異教のそれとはまったく異なっている。たとえば、聖書では、結婚は神と御民との間の契約を象徴している(2コリント11・2、エペソ5・22-33、黙示録19・7-9、21・9-11)。
教会は、つねに、雅歌を「教会と天の花婿の間のロマンス」と解釈してきた。しかし、これは、「セックスは礼典である」ということをまったく意味しないし、「結婚を通じて救われる」ということも教えていない。
象徴学は類推的であって、存在論的ではない。我々は神と性的な関係を持たない。・・・聖書の神学は類推的であって、実物的ではない。聖書が教える救いにおいて、人間が神の似姿に生まれ変わるのは、法廷宣告[義認]と倫理的な変貌[聖化]を通じてであって、神の御性質に存在論的に参加することによるのではない。[人間が神の一部になることによって救いを得るというのは汎神論的である。]
(David Chilton, The Days of Vengeance (Tyler, TX: Dominion Press, 1987) p.31-33. の翻訳)
2005年2月18日
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