2千年単位のパラダイム転換
最近カウンターが80〜90台に落ちた。ここ1年くらい100〜110台だったのだが。
これはいろんな理由があるだろう。しかし、一番の理由は、「あまりにも先を行っているからついていけない」からだろうと思う。
ここで、述べていることは、10年とか100年のパラダイム転換ではない。
2千年単位の超特大パラダイム転換である。
だから、おそらくこれを理解できる人は、神に選ばれた特別な人なのだろうと思う。普通の人は、「何を言っているの?」と思うか「カルト?」とかしか見えないだろう。
「すごい!」と思っている人ですら、内心「ホントかな?」と半信半疑だろう。そうじゃなきゃ、100前後で止まるはずはない。
ポスト・ミレは、200年ぶりの復活である。
セオノミーは、500年ぶり。
しかし、どちらも、ヴァン・ティル主義という、歴史はじまって以来とも言える徹底した「御言葉中心主義」と、
ディスペンセーショナリズムというアンチテーゼとの戦いのもとで練られて、純度は増し、一見すると、まったく新しいものと言えるほどにまで整備されている。
キリスト教誕生後、ローマ帝国でキリスト教が国教とされステータスを得てから1700年間拒否されてきた「ユダヤに属する法や文物、習慣、制度など」への再評価は、まったく新しい光をキリスト教神学に与えつつある。
ラッシュドゥーニーの律法研究はその最も主要な部分の一つである。
キリスト教は、律法を軽視した結果、律法から学ぶことができなかった。それに代わって、ギリシアに由来する様々な教えがたくみに侵入し、キリスト教をゆがめてきた。
その一例が、「禁欲思想」である。
クリスチャンになれば肉体が欲するあらゆるものを忌避しなければならないというような極端な考えから、今日のキリスト教の「世に属するもの」として政治・経済などへの傍観・忌避にいたるまで、キリスト教はまさに「あの世化」した。
本当のキリスト教は、「地を従えよ」(創世記1・28)の命令を第一に尊重する。
そして、「すべての国民を弟子とせよ」(マタイ28・19-20)の命令を成就することを目指す。
だから本当のキリスト教は、この世に積極的にかかわり、それを御言葉に基づいて変えていくはずである。
しかし、今日のキリスト教は、「それらのものは『この世』に属するから関係ない」と切り捨てて、「はやくキリストが来ればよいのに」と空を見上げて待っている。
16〜17世紀に政治と文化全般に影響を与え、世界を一変させたクリスチャンたちが聞いたら呆れてしまうほどの隠居ぶりである。
我々は、歴史的反省を踏まえた上で、新しいパラダイムを提供している。
使徒たちが企図していたあるべきキリスト教を実現するために、異邦人の思想によって濁らされた部分を排除し、聖書から本当のキリスト教を模索していこうと考えている。
さらに、(他の再建主義者と違って)私は、日本に原始キリスト教がタイムカプセルのように2千年程前に封印されていると考えている。
もちろん、聖書を越えたことであるならば、それを排除しなければならないが、聖書の理解に新たな光を与えてくれる数多くの要素がそこには含まれていると考えている。
私の基本路線は、あくまでも「聖書は聖書によって解釈する」ということである。聖書を自分の主観によって勝手に読み込みを行うべきではないと考えている。
私が採用する様々なデータは、聖書そのものの教えを発見・補強するものでしかないことを申し添えておく。
2004年11月4日
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