昔、ロシアには、去勢する教派があった。
「目がつまづかせるなら、それを抜き取りなさい」と聖書にあるからと。
また、初期のキリスト教では、自分から進んで殉教しに行くクリスチャンがいた。逃げられるのに逃げないで、進んで殺されにいく人が。
こういう考えは、まったく間違いだ。
イエスは、迫害を避けられた。
そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。
そのために、イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで、そこから荒野に近い地方に去り、エフライムという町にはいり、弟子たちとともにそこに滞在された。(ヨハネ11・53-54)
西洋思想には、肉体に属するものを嫌悪しさげすむ禁欲思想が入っている。
それは、ギリシア思想の霊肉二元論に由来する。
霊は正しくて、肉は邪悪だと。
そこで肉体を離れて限りなく霊に近づくようになることによって救われるという自虐思想が広まった。
柱の上で何十年も暮らす行者などがいた。
カトリックだけではなく、ロシア正教、プロテスタントにもこの禁欲的傾向がある。
しかし、聖書にはそのような禁欲思想はない。
しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。
それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。
神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。(1テモテ4・1-4)
「結婚することを禁じたり、食物を断つこと」を命じる人は、「うそつきどもの偽善」であり、「良心が麻痺」しているからだと。
彼らは、「惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れ」たのだと。
これはもちろん、健康上の理由で行われる断食を批判しているのではない。
「結婚することを禁じたり、食物を断つこと」を宗教的な理由で勧める禁欲主義者のことについて言っているのだ。
現代のクリスチャンが酒やタバコを罪悪視するのは、単に健康上の理由でだけではなく、また、聖書によるからという理由だけではなく、戒律と考えているからである。
パウロが言うように、この傾向は非常に危険だ。
健康上の理由ではない宗教的断酒や嫌煙は、「惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れ」たから起こる。
キリスト教が形骸化すると、このような禁欲思想が現れる。
なぜだろうか。
それは、「やった気になる」からだ。
敬虔になった気持ちがするから。
形を整えることによって、自分が信仰を深めたような、神に近づいたような気持ちになるから。
私は、ロヨラや、ケンピス、ジョン・ウェスレーに同じものを感じる。
敬虔さを強調し、生活の聖さについて多くのことを語るが、信仰義認が出てこない。
自分の内面への洞察は出てくるが、イエスによって罪赦されたことの喜びについての言及が少ないかまったくない。
ずれているのだ。
焦点がイエスではなく、自分に向いている。
こういう伝統が西洋のキリスト教にあるのだ。我々は、注意しなければならない。
この世界に存在するものは、「楽しむために」あるのだ。
だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。(イザヤ65・18)
自分から進んで苦難に向かうとか、苦しみを愛するとか、そういったマゾヒズムが、ヨーロッパ流のキリスト教にはある。
これは、ひとえに神の法から離れたからだ。
基準が自分の目、思想にあるからだ。
だから、神が定められたものではなく、自分が決めたものを忌避して自己満足するのだ。
キリスト教とは言っても、基準が神の言葉にないものは、いかに敬虔そうに見えても、実は悪霊の教えなのである。
エデンの園において、悪魔がエバに何と言ったか。
「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。・・・あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3・1-5)
人間を神の基準からそらすこと。
これこそ悪魔の目的なのだ。
我々は、食物の忌避や殉教しか選択の道がない場合はそうすべきだ。しかし、自ら進んで禁欲したり、殉教することは聖書的ではない。
おかしな宗教を見たまえ。
おかしさの度合いが深くなればなるほど、いろんなものを禁止する。
サタンは、人を束縛して自由を奪い、奴隷にしようとしているのだ。