律法はいのちを与えないか?16


<LUKEさん>

>メルキゼデク系律法は、レビ系律法の本体化、普遍化、超民族化です。

実体であるキリストのいのちを異邦人にも分与し得、いのちの御霊の法則を適用し得るという意味で、同意です。

私の論点、お分かりいただけました?ポイントはいのちを得るかどうか。つまり「肉から生まれるものは肉であり、霊から生まれるのは霊である。神の国に入るには御霊から生まれなくてはならない」わけです。これがキリストのいのちの分与(ディスペンス)であるわけです。

<メルキゼデク系律法=いのちの御霊の法則>であることを認めていただけると大いに議論が実り豊かになると考えます。そしてもしここまでをご理解いただけるのでしたら、次の論点、エクレシアとイスラエルの関係にも進めるとかと思います。

<tomi>

(1)
「<メルキゼデク系律法=いのちの御霊の法則>であることを認めていただけると大いに議論が実り豊かになると考えます。」

モーセ律法も「いのちの御霊の法則」です。

旧約聖書も新約聖書も、「御霊を受けた人々のために記されているから」です。

旧約の民も新約の民も、御霊によって律法を守っていましたし、守っています。

御霊がなければ、霊的なことをまったく理解できませんし、また聖書の御言葉に従おうなどという気持ちが起きません。

旧約の民も新約の民も、霊によって律法を守り、霊によって悟りを与えられていた(いる)のです。

だから、<メルキゼデク系律法=いのちの御霊の法則>という図式には首肯しかねます。

(2)
律法は、モーセであろうとメルキゼデクであろうと、「書かれた律法」です。

メルキゼデク系律法は、何か得体の知れない「霊(ゴースト)」のようなものではなく、バージョンアップされたモーセ律法であり、書かれた法です。

我々がメルキゼデク系律法を読みたいならば、モーセ律法を開いて、そこにある動物犠牲を「キリスト犠牲」の型として読むことです。

つまり、「新約の目を通して旧約を見る」という正統的プロテスタントの聖書解釈理論に従うことです。

(3)
神が主権者である以上、神の言葉はすべて法です。

厳密に言えば、神の「意見」「助言」などというものはない。すべて「命令」「掟」です。

仮に私が会社員だとすると、私の個人的な友人は私の仕事について命令できませんが、会社において私の社長は私に命令できます。会社において社長は主権を持っているからです。

しかし、社長は、私の個人的な生活について命令できません。彼は、私の個人的な人生について何も権威がありません。この領域について、社長や友人は「助言」はできるでしょうが、「命令」はできません。

神は、あらゆる領域を創造された方ですから、我々のあらゆる生活において命令する権限を持ちます。

だから、聖書に記された神の言葉は、すべて命令、法なのです。神は絶対的な主権があるので、我々に語った言葉はすべて法です。

聖書66巻にまとめられた御言葉、それはことごとく法であり、それなるがゆえに、それを細かく調べて、それを細心の注意をもって実行することが求められています。

そこにはいかなる抜け穴もありません。

もしこれを嫌う人がいるならば、その人は、神の主権を拒否する人ですから、クリスチャンではないので、救いから漏れます。

 

 

2005年10月14日

 

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