割礼の意味


男性性器は、人間の分身のようにして造られている。

割礼は、「霊的な感受性」に関係している。

割礼を受けていない男性性器は、頭に覆いがかかっていて、霊的な感受性が鈍いことを象徴している。

だから、聖書では、繰り返し「心の割礼を受けて悟れ」と記されている。

聖霊によって聖書の教えが心に敏感に入らない人は、まだ皮をかぶっているのだ。

無割礼の人は、一杯の煮物と自分の長子の権利を売り渡したエサウのように、悟りがない俗物の象徴である。

聖書の言葉を聞いても反応が鈍い、理解できない、そういう人々は、契約人としてふさわしくない。

契約に属するようになり、聖霊を受けた人は、割礼を受けた男性性器のように敏感に霊的な教えを悟ることができる。

割礼には痛みが伴う。割礼を意味する英語のcircumcisionは、皮をぐるっと切り取るという意味がある。

麻酔のない時代だから相当痛いだろう。ユダヤ人は、生まれて8日目に割礼を受ける。

霊的感受性を得るには、痛みが必要だ。

試練に遭うことによって、心に割礼が施される。

私は、家族の病気、受験の失敗などにより、試練にあった。高校生のときに、聖書を読んでイエスの御言葉が目の中に飛び込んでくるような体験をした。

「あ、これは人間の言葉ではない。この方は神に違いない」と直感した。

このような体験は心の割礼の証拠であろう。

また、大学に入ってから、不適応で転学を迷っているうちに初年度に留年した。非常に苦しかった。

その試練の後に、大学にとどまる決意をしてから、目が開けた。それまで虚栄心によって聖書の教えが心に入らなかった。

第2の割礼だろう。以後、理解力は高まった。

新約時代において、割礼は不要だ。あれは、心の割礼の象徴だからだ。

イスラエルの民族的律法が普遍的な律法に変化したときに、割礼制度は廃止された。

しかし、我々は割礼を受けている。心の割礼を。

それによって、我々は神の御心が分かるようになった。

聖霊は、我々の心に語りかけてくださる。それを敏感に察知できる能力が与えられた。

(2)
割礼は、血を流す儀式である。

血は、イエス・キリストの犠牲の血を象徴する。

男性性器は、頭があり、胴体がある。

それは、我々の小さな分身である。

割礼は、我々自身が血を流したことを意味する。

我々が裁かれた。処刑された。

我々は、処刑され、命という罪の代価を払わない限り契約に入ることはできない。

今日これは、バプテスマによって完成する。

イエス・キリストの十字架の血が我々の代わりに流されたと信じる儀式がバプテスマである。

旧約時代、割礼なしで契約に入ることはできなかった。

血を流すことなしには契約人になれない。

我々はバプテスマにおいて、キリストの犠牲を受け、そして、罪を洗い聖められる。

(3)
割礼は、神殿に入って礼拝する上で必須の条件であった。外国人であっても、アブラハムの家に属する者は、割礼を受けなければならなかった。

血を流した者、つまり、旧約では割礼と動物犠牲、新約ではイエス・キリストの犠牲により、古い自分を殺さない限り、礼拝者となれなかった。

礼拝者は、幕屋や神殿の入り口において、まず身代わりの動物を殺し祭壇にささげる必要があった。

血を流さない人は、礼拝できない。

性交とは神殿に入ることを象徴する。

割礼を受けた性器は、血を流し犠牲をささげた礼拝者を象徴する。

その人間だけが神殿に入って礼拝できる。

女性の体は、宮であり、男性性器は礼拝者である。

性交による合一は、礼拝、つまり、神と人間が神殿において一体化することを象徴している。

だから、偶像の神殿において礼拝することは、その偶像と一体化することを意味する。

礼拝をして、しかもその対象と一体化しないでいるということはありえない。

誰でも礼拝者は、その神、その教祖、その信者たちと一体化する。

オウムの神を拝む人は、その神、教祖、信者たちと一体化するのだ。

だから、オウムを信じた人々は、その教祖と同じ運命をたどった。

また、性交が、礼拝を象徴するのであれば、性交そのものが、その相手と運命を共にすることを意味することになる。

姦淫を繰り返す人は、その相手に入っている霊を受ける。

性的にふしだらな生活をして、悪霊による精神病にならないほうが不思議だ。

 

 

2010年2月13日

 

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