死もまた益なり


クリスチャンは、悪魔の体制の犠牲となることがある。

いろんな事件を見ると、クリスチャンが犠牲となっているのを見るだろう。

悪魔に特別に狙われることがある。

なぜ自分だけがと思うことがあるかもしれない。

それは、神に用いられているのだ。

我々は、イエスと同じ体験をする。

「誰でも敬虔に生きようとするならば、迫害を受ける」とあるように、我々は、世の中の流れと逆行するわけだから、大きな抵抗に会うだろう。

しかし、安心していただきたい「髪の毛一筋でも失われることはない」「足は腫れず、靴は擦り切れない」。

我々にとって損失になることはない。

苦難は必ずいずれ報われる。

我々は、あまりにも鈍感なので、苦難を通じてしか、神の世界を見ることはできない。

幸いばかりでは、神を見失う。

霊的な感性は、苦痛の中で養われる。

悪魔は、キリストを憎んでいるので、我々をも憎む。

だから、悪魔が体制をがっちり握り、悪魔の思い通りになっているような体制の中にクリスチャンが入っていくと、煙たくてしょうがない。

心が悪魔に占領されている人は、クリスチャンを狙い撃ちにして、攻撃してくる。

クリスチャンをいじめたくてしかたがない。

そういった場合は、その体制の末期だ。

クリスチャンに対する迫害を通じて、彼らは墓穴を掘る。

めちゃくちゃなことをやってくる人や組織があるならば、その人や組織は早晩破滅すると考えてよい。

クリスチャンは、悪魔のシステムを破壊するために、こうやって用いられることがある。

いわば十字架につくことによって、悪魔のシステムを破壊する。

だから、パウロは「死もまた益なり」といったのだ。

我々が、悪魔の攻撃の犠牲になることによって、我々はそのシステムを破壊し、そこに神の国を広げる。

だから、どっちにしろ、神の国は拡大するしかない。

悪魔は自分の支配を広げようとしてクリスチャンを攻撃するが、逆に自分の体制を崩壊させる。

悪魔に憑依された人は、逆上して、クリスチャンを貶めるようなことをする。すると、逆上しているからボロを出す。いろんなところで、自分の社会的評価を貶めるようなことをする。

我々を攻撃したようで、実は自分の破滅の種を蒔いている。

悪魔が我々を攻撃しているかどうかどうやって分かるのか。

その人や組織を見なさい。

恐ろしいことをやるから。

とても人間業ではないことをする。

常識では考えられないような。

悪魔的という形容詞をつけるのにふさわしいことをする。

「この人がこんなことをするのか!」とびっくりするような。

そういった御乱心に至ったら、我々は、「ああ、この人(組織)も終わりだな」と思うべきだ。

悪魔に憑依された人や組織は、あえて盲目にさせられて自分の穴を自分で掘るのだ。

クリスチャンには失敗はない。たとえ迫害されたとしても、自分は神の国の拡大のために用いられる。

どう転んでも成功しかない。

 

 

2010年10月28日

 

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