今日ほど識別眼が必要な時代はない


いわゆる「聖霊運動」では、聖霊が神として強調されている。
たしかに聖書は、聖霊を神としている。

だが、聖書が聖霊を扱う扱い方は、父なる神とキリストと比較して、非常に控えめである。聖霊は父と子に従って活動される。

私が聖霊派の聖霊強調に違和感を覚えるのは、聖霊が聖書において描かれている姿と違うと感じるからである。

あるカリスマ派の牧師に聞いた話だが、外国のある伝道者は、人を自分の周りに円形に並ばせて、手か指かを差し出してぐるりと移動すると、移動した場所から次々と人が倒れていく。そして、彼は「今聖霊様がここまで来ています」という。

そんなこと聖書のどこに書いてあるの?

指の先に聖霊が働いて、そこに聖霊が臨在され、それが人をどんどん倒していく?

私はこのようなパフォーマンスは、「催眠術」か「やらせ」のどちらかだと思う。

パウロがダマスコへの途上でイエスに出会ったときに、彼はその場に倒れた。まばゆい光に遭遇して、目が見えなくなった。

聖書は臨在の中で人が倒れるケースがあることを教えている。

しかし、このようなものと、指差してぐるりと回ると人が次々と倒れていくのと同一と見なすことはできない。

パウロの場合、神の栄光は十分に現われている。我々がその記事を読むときに、神の偉大さをあがめようという気持ちになる。

しかし、舞台の上で、人がバタバタ倒れるのを見て、神をあがめようという気にはなれないのだ。どう見ても、見世物にしか見えない。

「愛は礼儀に反しない」とパウロは教えているが、この原語は、「見苦しいことをしない」という意味である。

愛から行動するならば、人目に見苦しい行動や、恥ずべき行動、異様な行動は生まれないはずである。

常識人が見て、ぎょっとするようなパフォーマンスがあれば、どこかおかしいと考えるべきだ。

私は、このような異形のパフォーマンスを行うとされる「聖霊」は、本当の聖霊ではないと思う。

聖書が教える聖霊ではなく、催眠術か、そうでなければ、違う霊なのだと思う。

昔、左翼運動に関わる友人がいて、一度参考までに集会を傍聴したことがあるが、極めて異常なものを感じた。

とくに中国共産革命を模範とするあるグループは異様だった。みんな同じ顔をしているのだ。個性がまるでないかのようだった。みんな同じ格好、同じスタイルだった。赤いヘルメットに黄色い星が前部真中についている。カーキ色のジャケットにズボンを穿いていた。

この顔と同じものを今の北朝鮮の人々に感じる。笑顔も何も「作り物」だ。

人間は、霊に憑依されると、自分とは違った顔が出てくるものである。

表面的に見ると、その人が笑っているのだが、どうもその人とは違うものが笑っているような、そんな印象を与えるものである。

つまり、何かがその人の肉体を借りて住んでいて、本人はどこかに行ってしまい、ロボットのようになってしまったようなそんなイメージを与えるのだ。

以前、M先生の教会の教会員のうちで行われている祈祷会に行ってびっくりしたことがある。彼女は、以前、ある新興宗教で霊媒として活動していた。教祖が亡くなると、信者たちは、教祖の霊を降臨させるよう彼女に求めた。

彼女は、強い霊媒体質で、簡単に教祖の霊に憑依されたので、信者から重宝がられた。信者は、「先生がおられる」と喜んだ。

その当時の写真を見せてもらったが、彼女はまるで別人だった。風貌が、完全な男だった。歩き方から喋り方まで男そのものだったという。

私はこの写真を見て、大きな違和感を感じた。まさにサタンの支配する世界だと思った。

印象で人を判断してはならないというが、しかし、クリスチャンは直感で異物を感じ取るものだ。人それぞれ賜物が違うが、霊の見分けに特別に敏感な人がいる。このような賜物を持っている人は、教会において非常に重要な役割を担っている。黙っていてはならない。異常なものを感じたら、それが教会の中に入らないように警告すべきだ。

そうしないと、「慣れてしまう」からだ!

最初異常なものを感じても、人間は慣れる習性があるので、それが常識化してしまう。常識になれば、それがあたかも正統派であるかのように扱われ、いずれ教会の主流的地位を占めるようになるかもしれない。

今の教会は、もうすでに相当おかしなものが入り込んでいるので、異常に気付かなくなっている。教会の中に狼が入り込んで、羊を追い出し、そこを占拠してしまっているのに、気付かないほどに感覚がマヒしているのだ。

ブランド品の目利きによれば、ホンモノとニセモノを見分ける一番よい方法は、ホンモノにいつも触れることだという。

我々にとって、ホンモノとは、聖書である。「聖書だけ」である。「○○先生や××伝道師のメッセージ」ではない!○○先生や××伝道師だって間違うことがあるのだから、基準にならない。

いつも聖書に触れて、御言葉を暗記し、聖書研究を行ない、聖書から離れないことだ。そうすれば、異常なものが分かる。サタンに由来したものを選別して捨てることができる。

今日ほど識別眼が必要な時代はないと思うのである。

 

 

2004年7月22日

 

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