不品行は絶対に正当化できない


<Q>
聖書が書かれたころ、現代のマスコミのようなものもありませんでしたし、もちろんTVやビデオ、DVD、コンピュータのような情報の媒体は存在しませんでした。よって、肉の罪については書かれている箇所はあっても、雑誌、TV、ビデオ、DVD、インターネットを媒体にしたポルノ(ポルノ雑誌やアダルトビデオやそれに準ずる性的なものを扱った商品)について直接言明している箇所は存在しません。

肉の罪について聖書から解釈できるのは、同性愛、婚前交渉、他人の配偶者との性交渉、獣姦、売春などについてです。しかし、自分が直接肉体関係をもたなくても、雑誌、TV、ビデオ、DVDなどを見て、視覚的に性的快楽を得ることについて、聖書からどのように罪であると証明できるでしょうか?

また、性交渉までには達しなくても、新宿とかに行けばさまざまな性的なサービスを提供している所がたくさんありますが、このようなサービスについて聖書から罪であると証明されえますか?

<A>

以前も同じ質問を2度されたような気がしますが・・・。

(1)女性を情欲を持って見ることは、山上の説教において明確に禁止されています。
「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5・27-28)

(2)売春ではなくても、風俗を利用することは、ポルネイアの罪になります。
「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者(pornoi)…はみな、神の国を相続することができません。」(1コリント6・9-10)

pornoiとは、ポルノの語源です。

「あらゆる婚外及び不自然な性交渉は新約聖書において無条件に糾弾されている。…クリスチャンは聖霊の宮であり、自分の体を思いのままに使うことが許されていない。キリストに属するものを売春婦に与えることはできない。人は不品行によって自分自身の体を辱めているだけではなく、キリストの体も辱めている。放縦は肉の一つの表現であり、聖霊の働きとは完全に反している。それは地上に属することであり、クリスチャンは上にあるものを求めるべきだ。」(Kittel ed., 'Porneia' in Theological Dic of NT, vol. VI,. Eerdman.)

こういったことは、もう当然のことであって、聖書からこれらを許せるなどという解釈は絶対できません。

以前にも同じ質問をされたということは、これらが罪ではないように、聖書を合理化しようとする気持ちが透けて見えます。

私たちにできることは、聖書を自分の願望に合わせて合理化することではなく、罪を認めて、神の前に土下座して謝る以外にはないのです。

土下座したくないなら、地獄に行くしかありません。

 

 

2004年6月17日

 

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