三位一体論に関するsugi氏との問答


(1)
>A. 私がRSの三位一体論を聞いていて変だと思ったの
>は、下記の点です。

>1)本体論的三位一体論において、三位が契約によって規定される
>といってしまうと、契約が神よりも上の概念となってしまう。つま
>り、神が契約を定義するのではなくて、契約が神を定義してしま
>う。 無限永遠なる、本体論的三位一体の中に、有限なる私たちは
> 立ち入ることができない という点で、人間の類推の域を出ない
>のではと考えます。 あまりそこに立ち入ると、神の裁きを受けて
>しまうのではと私は恐れます。

まさにご指摘のとおりです。

しかし、今考えていたのですが、契約という概念によって規定するというのではなく、神の存在そのものが契約なのではないのか、と。

つまり、神のあり方そのものが契約であるから、それが基準となって、被造物に契約の関係が存在するのではないかと。

例えば、「神は美しいか?」と尋ねる人は、神が美の基準であるということを見逃しています。

神を測る定規はない。神そのものが美の基準である。神ご自身に近いものを美しいといい、神に遠いものを醜いという。

神は存在するのか、という疑問もおかしい。神は存在する、というのが基準。存在の定義の基準は神にあるから、神の存在を疑うことはできない。

と考えると、契約は、神の三位の関係そのものなのだ、と。三位の互いの関係が契約なのだと。被造世界は、この関係の反映なのだと。

どうして契約にこだわるかというと、第一に、人間と被造物、結婚、会社、社会、個人と他の存在との関係の根源的な形態を探る場合に神のうちに契約という関係は当然あってしかるべきではと考えるからです。

被造物は神の象徴なわけです。神と無関係に存在の形態があると考えることはできない。

私たちは、被造物を神の自己啓示と見るべきです。

すると、存在の根源的問題である「一と多」の基準が神に存在し、個と社会の根源が神にあるはずだと考えるのは正統的ではないかと思います。

社会が機能するには、上下関係が必要なのですが、この上下関係の正当性の基準は神の三位の間の関係であると思います。

イエスが父なる神に従っておられるのを人々に示されたのは、我々に(正当な)権威への従順を教えるためであると考えるのは間違いではないでしょう。

Auburn Avenue theologyに対して私は反対ですが、しかし、三位一体の間にある社会性については、speculative過ぎるというRichard D. Phillips牧師の批判は当たらないのではないかと思います。

http://www.gpts.edu/resources/resource_covconfusion.html


(2)

> これは三位一体論の深さなのだとおもいますが、無限なる存在は
>単数である。もし三つの無限というのは、無限ではなくて、区別性
>ができてしまい、無限ではなくなる。 結局のところ、神は唯一で
>あって、かつ 3つのペルソナがあるとしか 有限なる私たちは、
>理解/表現できないし、本当の根源的な意味での one and
>many を 私たちは理解できないのではと考えます。 結局、愚直
>に聖書の記述にとどまりつづけるしかないのです。 ですから、あ
>くまで私はウェストミンスター信仰告白の第2章にとどまり続けます。

>もちろん、実際的な意味では私たちはone and many の概念を
>実践的に、日常生活に適用していくことが求められており、そうし
>なければならないにしてもです。

>結局のところ、神の知恵は私たちには、計り知れないというところ
>にいきつく。 わたしたちは、神の前にひれ伏すしかない。そのあ
>たりの謙遜さが、三鷹に欠けていたように思えます。あまりに、類
>推からいきなり断定に行き過ぎるのです。それが破滅をまねく。


アタナシウスとカルヴァンとアウグスチヌスなど昔の指導者は、永遠の三位の関係において、上下関係はなかった、上下関係は受肉期間においてのみ存在するとしました。また受肉期間でもすべて一つの意思において活動されているのだから、上下関係はないとする人もいます。

しかし、私は、キリストがご自身のことを「子」であり、「父より生まれた者」と表現しておられるのですから、明らかに上下関係は三位のうちに機能的(economically)に存在するのではないかと思います。

ただ、もちろん、本質的において(ontologically)父と子は同質であり、同じく永遠であり、平等であると思います。

しかし、聖書の啓示を見ますと、永遠の世界において子は父に従うという上下関係があるように思えます。

しかも、単に一箇所とか数箇所だけではなく、非常に多くの箇所でこのことが啓示されています。

これは、明らかに三位が独自の人格として個別の行動があることを示しています。

ただ、だからと言って私たちが「じゃあ、神は複数である」と結論してはならないのは、聖書は神はお一人である、としているからです。

私は、神の栄光とは、「個別に3つの位格があるにもかかわらず、父なる神に子と聖霊が従い、一人として調和されている」というところにあると思います。

昔の指導者は、「別行動はすなわち、不一致を示唆する」と考えたようです。

例えば、アタナシウスは、「 since the divine persons of the Trinity act with one will, there is no possibility of hierarchy-inequality in the Trinity.(三位一体の神の位格は、一つの意思において行動されるので、三位一体において上下関係や非平等の可能性はない)」と言います。

上下関係があっても、非平等であっても、一つの意思において行動する例は、社会において無数に存在します。

人間の場合、そこに混乱や反逆があります。しかし、神にはそういうことがない。

多様性が完全に調和している。

だから、神はすばらしい。人間社会の模範・基準になれる。

三位が別の差を強調しなくなることは、必然的にユニテリアンに道を開くと思います。

他の宗教が「独裁かカオスか」の二元論に陥るのに対して、キリスト教が、統一と多様性の両方の同等の強調ができるのは、三位一体の教理があるからだと思います。

そういった意味において、私はヴァン・ティルは偉大な仕事をしましたし、その結果、弟子たちに、統一性と多様性について(たとえspeculativeに走る傾向があるにしても)多くの発展があったことを評価したいと思います。


(3)
>B. RSの教会観というのはFederal Vision その
>ものであり、おっしゃるとおり、ローマ教皇主義に近いものである
>と考えます。

>最大の問題点は長老教会のもっているRegulative
>Principle(規制原理)の概念がないことにつきます。ですから、
>ウェストミンスター信仰告白第20章の「キリスト者の自由および
>良心の自由について」において、保証されている キリスト者の信
>仰の良心の自由が失われてしまっています。

同感です。

(4)
>C. Auburn Avenue Theology は一契約をとりますから、事実上、キ
>リストの贖罪は不完全となってしまい、旧約と新約の区別もなく
>なってしまっています。 


>結局のところ、昔からある、ローマカトリックとアルミニウス主義
>に回帰しただけなのです。

>Auburn Avenue Theology/Federal Vision/New Perspective of Paul
> という神学的現象を見る時、下記の聖句を思い出すことです。

> 昔あったものは、これからもあり、昔起こったことは、これから
>も起こる。日の下には新しいものは一つもない。
>「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それ
>は、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。
> 先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こること
>も、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。

>(伝道者の書1:9ー12)

>ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさ
>い。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
>あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなた
>がたのことを心配してくださるからです。
>身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、
>ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、
>歩き回っています。
> 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のよう
>に、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来
>たのです。
> あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストに
>あってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あ
>なたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強く
>し、不動の者としてくださいます。
>(1ペテロ5:6−10)

>悪魔と戦うには、神の力強い御手の下にへりくだることが必要であ
>ると教えられることです。

同感です。

 

 

2008年10月25日

 

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