契約の区分2


(b)モーセの顔の栄光は消えうせる
2コリント3・7、13においてパウロは、モーセの顔の光がうせたと述べている。

これは、夜間に役立った自動車のヘッドライトが、昼間にはほとんど役立たないのと同じである。さらに大きな光が現れたら、小さな光は不要である。

キリストという実体が現れたならば、動物犠牲は不要である。本当の贖いが完了したのだから、動物犠牲やそれに連関する旧約の宗教制度はすべて不要である。

旧約の人々は「文字に仕える者」であり、新約の人々は「御霊に仕える者」と記されている。

これを、新約になったら律法は不要であり、御霊だけでよくなった、と解釈してはならない。なぜならば、聖書全体は、けっして律法を廃棄せよと述べていないからである。

この同じパウロが、他の個所で、「それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」(ローマ3・31)と述べている。

イエスは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5・17)といわれた。

これらの言葉と2コリント3章を調和させるならば、パウロがけっして律法を悪者扱いしていないことが分かる。

「文字は殺し、御霊は生かす」と書いてあるのを、「律法は我々にとって有害だ。律法を無視し、御霊に従おう」と解釈してはならない。

2コリント3章のパウロの発言は、あくまでも相対論なのである。

つまり、新約の「生命付与力」に比較すれば、旧約の律法はあたかも殺すものであるかのように見える、ということなのである。

 

 

2005年10月29日

 

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