フラー神学校の新福音主義が教会に及ぼした多大な悪影響


(1)
霊を扱う場合に注意しなければならないのは、霊は追い出す人を見抜いてくるということです。
信仰がないと、逆に襲われて取り付かれることがあります。

マニュアルなんかでできるものではないと思います。

まず、自分が主にあってサタンを支配する権威が与えられているという確固とした信仰が必要だと思います。

(2)
フラー神学校は、校長オッケンガーやカール・F・H・ヘンリーの新福音主義によって「他の教えと対話する」路線をとりました。それにより、聖書信仰が崩れ、バルトが侵入しました。

聖書から教えを吟味するというのではなく、「科学的」「経験主義的」に教えを選択したため、この世の流行も侵入しました。

例えば、教会成長学は、聖書において言われている契約的祝福に基づく成長ではなく、経営学の手法を取り入れ、科学的な成長が尊ばれました。

聖書においては、「契約を守り、御言葉に従う場合に、『長時間かかるかもしれないが』成長が訪れる」と言われています。神と人の関係は契約的関係ですから、契約の条件である御言葉への服従なしに成長などありえません。

また、『長時間かかるかもしれないが』と言ったのは、この成長は、3,4世代かかる長期的な視点に立つべきものであるからであり、教会成長学のように数年単位での成長は期待できません。

会社や企業の成長と教会の成長を混同したため、教会成長学を採用した教会では、人寄せパンダが重んじられました。

世俗世界で成功したタレントや有名人、会社の経営者などが尊ばれ、教会の看板として重宝されました。

フラー神学校を卒業したある教師が、こう言いました。

「みなさん、どんなに教会でいやなことがあっても、その教会を出た道の角を曲がったら顔をにこっとしてください」と。

教会に人をひきつけるには、人間的な手法でよいという考え方です。

前回のビリー・グラハム大会で、奉仕者向けのビデオを見てびっくりしました。

大会に未信者を誘う誘い方として、次のような例が紹介されていたのを記憶しています。

「東京ドームの人工芝って実際に踏んで見たくないですか?」

福音派の教会は、次の御言葉の原理とまったく矛盾する道を歩みはじめ、次第に堕落していきました。

「これは権勢によらず能力によらずわが霊によるなり。」(ゼカリヤ4・6)

人が救われ、教会が成長するのは、人間の力ではなく、霊です。

神様の方法は、人間の思惑の逆です。人間がよいと思う方法ではない方法を取られる。

神は背が高く見栄えがするサウルを退け、まったく見栄えのしないダビデを選ばれた。

イエスは王宮で生まれたのではなく、馬小屋で生まれた。

フラー神学校の新福音主義は、教会を世俗化させた元凶となってきました。

教会から年々信徒数が減っているといいますが、異なる教えの波にやられてしまったので、これは当然の結果と言えます。

(3)
霊の世界は、非常に微妙で、神の霊であると思っていたものが実はサタンであったということがあります。

聖書を離れ、聖書研究、御言葉への忠実という基盤のないところで、霊を扱うことがどれだけ危険か。

フラー神学校の霊関係の教えには注意すべきです。

そんなものを読むよりは、聖書を、じかに一節一節読む聖書研究会を開くべきと思います。

今世俗で流行している教えは、UFO、神秘体験、霊体験、心理学・・・です。

フラー神学校は、「御言葉への忠実」というよりも、「世への売り込み」中心ですから、世の人々の関心を引くために、そういった流行を取り入れる傾向があります。

すると、フラー神学校が扱う霊問題とは、聖書の扱う霊ではなく、世俗のTVなどで扱う神秘体験や霊体験と同類のものになっているように思えます。

私には、今キリスト教書店にならぶ霊関係の著書、今よく開かれているイベント類にいやなもの、黒いものを感じるのです。

以前、友人に誘われて行った集会でメッセンジャーがこう言っていました。

「みなさん、勉強したり、聖書研究すると暗くなりますよ。イエスは明るいお方だったんです。アハハ、アハハと笑っておられたんです。」

この腹をかかえて「アハハ」と言ったときの声としぐさに私は不気味なものを感じました。

イエスは本当にそんな、威厳のない笑い方をされたのか?

本質的にイエスの神としてのお姿が分かってないと思いました。

この印象は、映画「パッション」からも感じました。

この監督は、イエスと出会ったことがない。イエスを知らないと思いました。

霊的な理解があればあんな映画は作れないはずです。

 

 

2008年3月21日

 

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