いじめの減少には「目には目を」の原則で対応せよ
いじめは世界的で、いじめによる自殺も世界で起きている。
これは人間がいじめの遺伝子を持っているからである。だから、いじめを撲滅しようなんて運動は無意味だ。
撲滅は不可能。減らすことはできる。
減らすのに最適なのは、「目には目を」の原則。
やられたら、やった分だけ返す。
しかし、合法的に。聖書は合法的な復讐を認めている。
合法的とはどういうことかというと、聖書にのっとった法的手続きを踏んでということ。
これまで聖書が禁止しているという人がいるが、それは地獄を否定する議論だ。復讐が罪であるならば、地獄も罪になる。
しかし、神は地獄を創造され、罪を犯して悔い改めずキリストを信じないすべての人は死後そこに絶対に落ちる。神は罪人に復讐される。罪人が地獄に落ちるときに、はじめて神の義が満足する。
「いいよ、いいよ」とやると神の秩序が崩壊する。神は絶対的に義であるから、罪を処罰せずにはおかれない。
地獄を作らない神は、神ではない。
社会で罪を容認すると、問題が蓄積し、必ずどこかで帳尻をあわさなければならなくなる。隠蔽体質の企業は、いずれどこかでそのつけを払うことになる。
聖書の原則は、「被害者は加害者に対して同じ程度の危害を加えることができる」ということである。
そうすることによって、加害者はやたらにいじめができなくなる。
いかなる違法行為に関しても、犯罪者に同等の代価を示すこと。それが犯罪の抑止になる。
今の司法は、変な倫理観にとらわれており、「復讐はよくないことだ」と考えている。
だから、被害者はやられっぱなしになり、犯罪者がつけあがる。
聖書が示す「寛容」は為政者が示すのではなく、被害者が示すものである。
つまり、被害者の一存で刑罰が決まるというものだ。
被害者は、目の代わりに目をもって返すこともできるし、目以下の被害を加えることもできる。
目以上は禁止されている。
裁判所が刑罰を決定し、今のヒューマニズムの博愛精神を発揮して、殺人に対して温情をかけるから、被害者の家族は不満とうっぷんがたまる。これは、秩序の崩壊を招く。
刑罰は被害者に決定させろ。
犯罪者に対して不当な温情をかけると犯罪者がのさばる。
いじめは、学校における犯罪であり、犯罪である以上は、処罰は不可避だ。
ロシアは、体制崩壊後、犯罪に対して甘くなった。そのためある統計によれば、もっとも凶悪犯罪が多い国になった。
いじめをやった子には、いじめられた子に刑罰を決定させるべきだ。
他の生徒もそれを見て罪を犯すことを恐れるようになる。
これ以下のことをやって善人面する学校には統治能力はない。
2010年2月27日
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