この世界は神のために「のみ」存在する


万物の創造者、絶対神は、自分以外の最終目的を持っていない。

神が行われるのは、すべて究極的には自分のためである。

なぜならば、神は万物の創造者、絶対者だから。

自分以外のものが最終目的であるものが一つでもあれば、それは神ではない。

たとえ、御子を十字架につけて人々を救ったとしても、いかに犠牲的な行為を神がなさったとしても、その究極的な目的は「自分の栄光」である。

人間的な意味で言えば、神は究極の自己中心である。

人間の場合、自己中心は許されない。なぜならば、人間は万物の創造者、絶対者ではないから。

それは、人間にとって僭越な願望である。

しかし、神にとってはそうではない。神にとって、万物は自分の手の創造であり、すべてにご自身の名前がついている。万物を創造した者が、万物について独占的所有権を主張することに何ら問題はない。

今日、人々が神のこのような「エゴイズム」に対してアレルギーがあるのは、「人間こそ万物の目的であり、究極的所有者である」という間違った教育を受けてきたからである。

ヒューマニズムとは、「人間の創造者化・絶対者化」である。

人間を神の代わりに宇宙の王座にすえる教えである。

だから、人間は神に嫉妬する。

予定論に対する反対や嫌悪は、このような理不尽な嫉妬の感情にある。

「神が自分の目的のために、救われる人も滅びる人もあらかじめ予定された」ということに我慢がならない。

人々は、「自分こそ神だ。運命の決定者だ。」と考えているので、他の運命決定者を許せないのである。

「万物は私の願望のために存在しなければならないのではないか?」といつも考えているので、他の者のために存在すると聞くと、無性に腹が立つのである。

今日のキリスト教が予定論を嫌うのは、ヒューマニズムに犯されているからである。

頭を徹底的に切り替えて、聖書の論理に従うべきである。

この世界は、究極的に、ことごとく神のために「のみ」存在するのである。

 

 

2006年8月12日

 

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