人の歩き方をいちいち指図するのを止めたまえ
ある無礼なクリスチャンから、「牧師としての働きをしないとだめだ。インターネットの活動はバーチャルだから意味がない」というようなメールをもらったので、ここではっきりさせておく。
私は、インターネットを使って牧会するというようなつもりはまったくない。私は、牧師としての召命はない。私は、自分の賜物以上のことはできないし、また「したくもない」。
何かのムーブメントを起こして、人々を動員し、大運動を展開するなんてことも考えていないし、そのような時間は無駄に思える。
私の正直な気持ちだが、キリスト教神学の再構築という働き以外のことは一切するつもりがない。これまで別の仕事をしている時に感じてきた「空虚さ」「無駄という感覚」は、召されている人間だけが理解できる感覚だろう。
よくこういった召命について理解できない若造が、「こうしたらいい」「ああしたらいい」と余計な口をはさむが、神の道を知らないからである。
私がやりたいと思っているのは、本当に聖書的な考えとは何かということを探ることであり、また、発見を分かち合うことである。
だから、私を伝道者以上のものと誤解しないで欲しい。私には牧会の才能はない。
自分が今やっていることは、自分にとってもっとも落ち着いて、無理せずできることである。
何か聖書に書いてもいない義務を人に押し付けることがどれだけの裁きを招くか理解してほしい。
人を導くのは神であり、人が何をすべきかを指示するのは神おひとりである。
人間が「君はこうこうこういう性格だから、これこれこうしたらよい」というようなアドバイスは、求められたらまだしも、自分から相手に言うべきではない。
もしそのような指示をするならば、彼は神になったということを意味する。
使命とか働きを指示するのは神以外にはない。
昔の私の指導者が、私が牧師をしていないことを批判している。
なぜ牧師をしていないと召命に答えていないことになるのだろうか。
答えられないだろう。召命を受けたら牧師をして、教会を運営すべきだ、ということが聖書のどこに記されているだろうか。
むしろ、聖書は、人によって賜物は違う、と述べている。
牧師に召された人、教師に召された人、預言者に召された人・・・。
友人のK氏は、預言者タイプである。私は教師タイプである。
私の周りには牧師タイプはいない。牧師タイプは、組織化ができなければならない。人間を扱う仕事だから、そういうことに気持ちが向かねばならない。
私は根本的に人間よりも世界に興味がある。ドラマはめったに見ない。
人間に対する興味は低い。
このような人間が牧師に向いていると誰が言えるだろうか。
人間の進むべき道についてあれこれ言うのは、傲慢のなせる業である。
君、人の歩き方にいちいち指図するのを止めたまえ。
2007年2月20日
ツイート
ホーム