自分の感情に抵抗しよう
私はある時点まで、「自分に自然に湧きあがってくる感情に素直に従うことはよいことだ」と考えていた。
しかし、かなり厳しい生活を強いられるようになったときに、それではだめだということが分かった。
現代の心理学は自然主義の傾向が強い。
自分の心の赴くままに行動することが「解放」だなどと言う。フリーセックスはその典型である。
「自分の欲望を抑圧するから精神病になるのだ。欲望を開放しなさい。」と言う。
欲望を開放して人間は健全になるだろうか。いや、むしろ異常者になるのだ。性欲を開放された人間は、さらなる刺激を求めて、倒錯から倒錯に向かう。
ルソーなど自然主義者は、「自然のありのままの姿」を賛美するが、人間のありのままの姿は堕落しているのである。
それは、エデンの園において堕落して、模範や基準にはならなくなっているのだ。
大学時代には、まだ実存主義を賛美する風潮があった。
「不安こそ自分が生きていることを証明してくれる!」などという教えがはやっていた。
学生は「精神的安定」を何か劣ったものであるかのように扱っていた。
不安、恐怖、迷い、…
私も、こういった心に浮かぶマイナスの感情に素直に従うことが善であるかのように考えていた。それこそが現実を見据える「成熟した大人」であるかのように考えていた。
しかし、実際に自分という存在に対する強烈な精神的な挑戦を受けたときに、そういった「自然的感情に素直に従う」ということは自分をまったく助けないということに気づいた。
自然的感情は堕落しているのである。
そして、それは自分を破滅に導く。
サタンは不安を増幅させて、不信仰に貶め、自殺させたり、不安のあまり精神に異常をきたせようとしているのである。
ポスト・ミレの楽観的歴史観を学んでから、私はまったく変わった。
自分の周りにいかに心配の種があっても、「主は勝利される」と信じることができるようになって、全部プラスに解釈することができるようになった。
誤解してはならない。自分の素直な感情に従ってはならないのだ。
恐怖や心配、不安が襲ってきたならば、それに抵抗しなければならない。
心配しても仕方がないものは、主にゆだねて放置することだ。
自分の部屋の中に一つの箱があって、ちらかったものや不要なものをぼんぼん放り込むことができたら便利である。
そのような箱を思い浮かべて欲しい。これは信仰という名の箱である。
心配しても仕方のないことや、自分の頭から離れない問題をその箱の中に放り込んで後は野となれ山となれ、という気分でいれば、神がすべて代わりに解決してくださる。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(1ペテロ5・7)
心配する人は、自分の人生の貴重な時間を空想によって浪費する人である。
心配しても仕方がないことを心配するのは奴隷である。他のものに振り回されている人生なのである。
クリスチャンは王であるから、自分の人生についてコントロールができるはずである。
空虚な事柄によって縛られる生活から解放されるには、まず「自分の感情に抵抗しなければならない」と考え方を変えて欲しい。
我々は知らず知らずのうちに、近代自然主義思想の影響を受けているのだ。
聖書だけにしがみつき、イエス・キリストの手をしっかりと握り締めよう。
そうしないと、心配と恐怖によって糸の切れた凧のように空中をあてもなくさまようことになるだろう。
2005年6月27日
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