クリスチャンは神のイスラエルである
新約時代において、イスラエルとはクリスチャンのことを意味する、というと、メシアニック・ジューの人々は、「それは、置換神学だ」という。
違う。
ちゃんと聖書に、クリスチャンはイスラエルだとある。
「割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。」(ガラテヤ6・15-16)
「割礼ではなく、新しい創造を基準として進む人々」が「神のイスラエル」であると述べているのだ。
これは、民族的イスラエル=ユダヤ人を表しているのだろうか?
もちろん、ノーだ。
割礼を受けろという人々に対して、「割礼は重要ではない」と唱え、割礼を受けず、新しい創造、新生を強調する人々を「神のイスラエル」と述べているのだ。
これは、霊的な(つまり、超民族的な)イスラエルだ。
割礼という形式ではなく、「聖霊によって新しく生まれ変わったかどうか」ということを大切にする人々は、ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、「神のイスラエル」である。
つまり、こういうことだ。
新約時代において、旧約聖書のイスラエル人は、王国の民としての身分を失った。しかし、ローマ11章においてパウロが述べているように、民族的イスラエルは依然としてイスラエルなのだ。
だから、「今の時代、民族的なイスラエル人についてうんぬんするのはおかしい」とはいえない。このように主張する立場を置換神学と言う。
聖書は、民族的イスラエルの存続をはっきりと主張している。
では、異邦人クリスチャンはイスラエルではないのか。
もちろん、すでに述べたようにイスラエルである。
つまり、「異邦人は、かつてユダヤ人しか入れなかった家の中に招きいれられた」ということなのである。
今、神の家は、ユダヤ人と異邦人の混在である。
そして、どちらもイスラエルである。
しかし、ユダヤ人は、神の摂理によって、この家から飛び出してしまった。
それで、現在、神の家にはほとんど異邦人しかいないという状況になったのである。
しかし、ユダヤ人は、神のイスラエルとして選ばれている民族だから、必ず家に帰ってくる。
彼らが実際に帰宅すれば、神の家は完成する。
メシアニック・ジューの集会に出て、異常に感じるのは、ユダヤ人のメッセンジャーがときどき、「この約束はユダヤ人にしか与えられていない。」ということだ。
彼らは、経綸が変化したことを理解していない。
これは、メシアニック・ジューの神学がディスペンセーショナリズムに侵されているからである。
民族的障壁は撤廃され、どの民族でも、「新しい創造」を尊重する者は、イスラエルであり約束のものを手に入れることができる。
だから、今の時代において、「ユダヤ民族だけに与えられた約束など存在しない」。
今の時代において、ユダヤ人と異邦人を階層的に区別するなどナンセンスである。
前者が選民で、後者は非選民だなどという区別はもはや存在しない。
ガラテヤ6章15-16節はこのことをはっきりと主張している。
キリストとの契約によって、神の家の中に入った者はすべて「神のイスラエル」である。
2004年7月27日
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