再建主義はイスラム教のようだ?


あるサイトで「クリスチャニティ・トゥデイが再建主義を支持するのはなぜか?」と質問する人がいた。

あたかも再建主義が異端であるかのような書き方であるが、ちゃんと調べていただきたい。

単に「危うい」という印象だけで判断しないように。

山谷牧師については、このサイトで議論がすでに出ているように、「セオノミー」そのものを再建主義独自の意見のように論じている。

しかし、セオノミーそのものは、カルヴァンの時代から宗教改革の運動の一部にあるものであり、特別に現代登場した新しい考え方ではない。

むしろ、正統的なキリスト教の考え方である。

セオノミーに反する見解を出したのは、主にディスペンセーショナリズムである。

ディスペンセーショナリズムは、19世紀初頭に始まった新しい神学であり、神の法を未来に登場する(という)千年王国時代に限定し、現代世界への適用を禁止する異端の教えである。

聖書のいかなる部分においても、神の法の現代への適用を禁止する部分はない。

パウロは、はっきりと次のように述べた。


それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。(ローマ3・31)

律法は無効にならないとはっきりと述べられているではないか!

ディスペンセーショナリズムは、この箇所を無視する。

なぜならば、自説と矛盾するからである。

ディスペンセーショナリズムは、パウロの律法観を拒否する。

律法の新約時代における有効性を拒否する思想は、非聖書的であり、それゆえ、異端である。

あるカルヴァン主義の教会が「再建主義はイスラム教のようだ」と述べたそうだ。

どうしてイスラム教なのだろうか?

説明していただいたい。

どこがイスラム教に似ているのだろうか。

聖書から論証してほしい。

どのような立場であっても、印象だけで判断するのではなく、聖書から論証し、確認する責任がクリスチャンにはある。

「石打刑を唱えるから」???

我々は、石打刑の復活など唱えていない。

石打刑に含まれる原理を現代の刑法に適用するならばどういうものになるのか、と問うているだけだ。

刑罰の形はいろいろあるだろう。しかし、神が石打刑において示された御心を継承しなければならない。

これがイスラム教なのか?

新約時代において、旧約律法の適用はできないというならば、それを聖書から証明したまえ。

感覚とか感情とかそういった情緒的な対応ではなく、きちんと神学的に論証したまえ。

 

 

2009年8月31日

 

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