思想兵器としての教科書5


ラッシュドゥーニーは、クリスチャンスクール運動において傑出した存在である。そのため、彼は、子供たちを地元の公立学校に送っている父兄からたえず面と向かって非難されてきた。彼らの言い分は「私たちの学校は違う」だった。

これらの父兄は、おそらく良心の呵責を感じているので、ラッシュドゥーニーの税金によって支えられている教育に対する徹底した非難から自分を守ろうとしているのだろう。

ラッシュドゥーニーは次のように述べた。


あなたの学校は、他のすべての公立学校と同様に、法律によって、国家の教科書委員会が承認した教科書を使用するように定められています。これらの教科書は、国の教育行政の基準と、「宗教的中立」の原理を強制する合衆国最高裁の基準に達していなければなりません。あなたの学校が誰によって運営されているかは重要ではありません。教師の半数が第一バプテスト教会に属していようがいまいが関係ありません。あなたの子供はそのような教科書を通じて国が教え込もうとしていることを教えられている[ということこそ問題なの]です。

どの場合でも、この言葉によって議論は終了した。もちろん父兄は、この「無料の」学校に子供たちを送り続けることを止めなかった。・・・父兄は、宗教的原則に基づくのではなく、安易な気持ちにもとづいて物事を判断していた。ラッシュドゥーニーはこのことをよく理解していた。彼は、「私たちの学校は違う」という脱出口を塞いだだけだった。自分の子供にどのような教科書が割り当てられているのかをじっくり腰を据えて調べたことがある人がこれらの公教育賛成論者たちの中に一人もいない、ということを彼は知っていた。・・・

結論

「私たちの学校は違う」と主張する父兄に対するラッシュドゥーニーの回答は、「教科書を読みなさい」であった。自分の子供の教育に関する責任を地元のクリスチャンスクールに丸投げしているすべての父兄に対する私の回答も同じである。

ホームスクーリングの場合、教師を務める母親は教科書を読まざるをえない。もしくは、教科書をまったく用いない。

しかし、これらの母親にも問題が残る。彼らは、若いころに公立学校において「公立学校が用意した歴史」を学んだからだ。彼らの父兄とそのまた父兄と同様に。子供に受け継がれるこのような誤謬の連鎖を断ち切るには数世代かかるだろう。

しかし、それはいつかは始めなければならない。今がその時だ。

 

 

2006年12月9日

 

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