締め切りがきつい仕事があるので短くコメントする。
日中戦争から太平洋戦争にいたる流れの中において、米中ソの共産主義者がどのようにして日本を罠にはめ、戦争にひきずり込んだか、歴史的な検証をした『大東亜戦争とスターリンの謀略(戦争と共産主義)』(三田村武夫)を注文したら、保守主義に立つ「磐南総合研究会」という発売元から「澪標」というニュースレターが同封されていた。
その代表岩田温氏の著書に対して寄せられた埼玉大学教授長谷川三千子氏の「推薦の辞」がそこに記されていたので、引用させていただく。
「精神」とは、肉体を有するこの小さな一個の自己が、自国の歴史の或る一瞬に自己を燃焼するとき、そこに閃く一条の光である。そして、著者は、いかなる高名な哲学者や歴史家や歴史上の偉人に対しても、怖めず臆せず、無言のうちにかういふ問ひを突きつけてゐるのである――お前は、本当に「精神」を見ようとしてゐるのか?お前は本当に「精神」をもって生きたのか?
残念である。
共産主義に対抗し、赤い中国の策謀を暴き、日本歴史の正当性を主張する人々が、国家主義に立つのを見るのはまことに残念である。
赤い中国を非難する人々が、その赤い中国と同じ宗教に依拠しているのを見るのは残念である。
右翼の方々も左翼の方々もよく私の主張を理解していただきたい。
現代の共産主義も、保守主義も、どちらも「国家を神とする」という点においては根幹を共有しているのである。
近代主義とは国家主義なのである。近代思想の本質とは、国家主義である。
そして、国家主義から自由にならない限り、問題は何一つ解決しないのである。
個人を国家の文脈でしか見るという誤謬を捨てない限り、共産主義の否定者は、自ら共産主義者になる以外にないのだ。
保守主義者が共産主義者を否定して、政権を担当しても、同じ全体主義という枠の中で左から右へ移動したに過ぎない。
保守主義も共産主義も「一」の宗教である。
一の宗教において、多様性は統一に向かうステップに過ぎない。共産主義国において多様性が否定されたように、国家主義を捨てない保守主義も多様性を否定せざるを得ない。
なぜならば、国家主義は、多様性・個に対して「原理的に」価値を与えることができないからだ。
個人の精神や人生が国家の計画という文脈の中においてのみ評価されるようなシステムでは、まったく解決にならない。
政治思想の究極の問題点は、哲学的な「一と多」にある。
一と多を両立させられる思想に基づかない限り、全体主義と無政府主義の間を行ったり来たりする以外にはない。
本当にこの水準にまで問題を掘り下げない限り、保守主義が人々の支持を獲得することはできないだろう。