一般に、「クリスチャンになると自由になる」と教えられている。
たしかにそうである。クリスチャンになると自由だ。罪や迷信、悪い習慣、恐れ、心配・・・様々なものから自由になれる。
しかし、この点で間違った伝道方法がまかり通っている。
それは、罪を犯してもよい、罪を犯す自由が与えられた、というようなものだ。
聖書はそのようなことを何も言っていない。
イエスは、新約時代の律法を示してこう言われた。
「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって{理由なくして}腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。 」(マタイ5・21-22)
旧約時代よりも厳しくなっているではないか。
旧約時代の律法では、具体的な殺人が扱われたが、新約時代のそれでは「心」が扱われる。
もちろん、旧約時代の律法でも「貪ってはならない」と心が戒められていたのだが。
今日クリスチャンは誤解している。
我々は、罪を犯す自由が与えられたのではなく、「罪を犯したら受けなければならない永遠の地獄という刑罰」からの自由を与えられたのである。
その刑罰はキリストが十字架で身代わりに受けてくださった。
出エジプトのイスラエル人たちを見よ。
彼らは、モーセを先頭に事細かに指示を受けながら進んだ。
主の指示を聞かず自分の判断で戦闘すると必ず負けた。
罪を犯すと裁かれた(懲らしめられた)。
つまり、クリスチャンになるということは、神の奴隷となることであり、自由を得ることではまったくない。
神の計画のために利用される人間になることであって、自分の意思で人生を切り開く人間になることでは絶対にない。
むしろ、自分の功名心や金銭欲やその他あらゆる欲望を切り捨てられる。
野心は殺ぎ落とされ、神が与えられた型枠どおりに収められる。
クリスチャンになるということは、神の御国を拡大するための駒になることだ。
神は我々がクリスチャンになると、キリストの御体のどこに配置するかを決められる(正確に言うと、永遠の昔に決まっているのだが)。
ある人は目、鼻、口、手であるかもしれない。
ある人は、具体的に名前のついていない場所かもしれない。
とにかくクリスチャンになるということは、キリストの御体である教会、御国という組織の一部になるということだ。
だから、「自由」などない。
細胞が全体のことを考えずに自由に動くと癌として切り捨てられるように、放縦なクリスチャンも切り捨てられる。
我々は、世界中のクリスチャンと一つの体を形成している。
その中には、今天にいるクリスチャンも含まれる。
全部がキリストを中心に一つである。
頭は一つ、体も一つである。
だから、体を支配する法則である律法を守らなくてもいい、多元的でもいい、というような教えは、「癌の教え」なのだ。
それは、我々を癌細胞にする教えであり、異端である。