聖書信仰はキリスト教の基本中の基本である


今はやりのダビンチコードやユダの福音書などは、聖書の十全性に対するサタンの攻撃であり、これを通じて、人々の間に「聖書は何か神聖で、不変の真理ではなく、人間の手によって改ざんされた不完全な書物でしかない」という考えが広まっている。

このような考え方は、すでに数百年の歴史がある。

「聖書には間違いがある」と考えると、では「どこが間違いで、どこが間違いでないかをどうやって判別するのか?」という問題が生じる。

判別をするのは人間しかなくなるのである。

死刑反対論者は、「死刑を肯定する記述は、死刑賛成論者の加筆であって、オリジナルのテキストにはなかったはずだ」と言うかもしれないし、中絶賛成論者は、「中絶を否定する個所は、中絶反対論者の教会人の加筆だろう」と言うかもしれない。

聖書に間違いがあるならば、人間が自分の主観に基づいて「神の言葉」と「人間の言葉」を切り分けることができるということになる。

そうすれば、聖書はもはや神の言葉である可能性はまったくなくなるのである。それは、人間の言葉である。

実際、聖書を疑い出してから、学者たちはこういった判別を行い、厚さの違う各人の聖書を作り出してきた。

もちろん賢明な読者はお分かりだろうが、こういうことが許されるならば、もはや共通の信仰は不可能であり、キリスト教は啓示宗教ではなく、自然宗教になり、ヒューマニズムの一派に堕するのである。

それは、神の宗教ではなく、人間の宗教である。

聖書の完全性を主張することは、キリスト教がキリスト教であるための基本である。ここで崩れるならば、すべてが崩れる。

聖書は原典において無誤無謬である。

それは神の御言葉であり、それゆえ、それに対して疑いをかけたり、加筆・削除をしてはならない。そのように試みる者をクリスチャンと呼ぶことはできない。

頑固に聖書信仰を拒否する人が御国に入れる可能性はゼロである。

 

 

2006年7月6日

 

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