キリスト教信仰とは能動的である2


悪霊の縛りについて、聖書ではクリスチャンには、「御使いすら支配する権威が与えられている」とありますので、悪霊に縛り付けられるということが永遠に続くはずはありません。

どうすれば、縛り付けから解放されるかというと、ただ疑わないで信じることです。

私も陥った問題ですが、内面について敏感になると、内面が変わらないのは自分に問題があるからだと考えてしまう傾向がクリスチャンにはあります。

それで、際限のない内面との取り組みが始まります。とくに、かつてすばらしい体験をした人は、それが復活することを願います。

しかし、そういう人は、重要な点を見逃しています。

それは、「キリスト教の信仰とは、受動的ではなく、能動的だ」ということです。

自分に何らかの感覚が戻ってくることを求めるのではなく、自分からその感覚が得られると信じることです。

つまり、「何かぐっとくる体験をする」ことを求めるのが信仰ではなく、「神と御言葉を絶対的確実に信じようと努力する」ことが信仰です。

私もかなり長い間悩んだのは、「昔あのような恵まれた体験があったなあ」ということにこだわり、「どうして今はこうなってしまったのか」という後悔でした。

しかし、これは、サタンに自分を明け渡すに等しい愚考です。

なぜならば、信仰がないからです。聖書的信仰とは、「今の状態が最善であると信じることです」。

神がそれを許しておられる。だから最善なのです。

我々がその体験を持っていないかどうか、今の状態がどのようなものであるかは重要ではない。我々が神の与えられたすべてを受け入れてそれを喜び感謝し、「神の祝福に満足すること」です。

もちろん、向上心を失えということではありません。さらに高い状況に進むべきです。しかし、今の状況をダメだと考え、内面的に自分が何かの問題をかかえた存在で、神に裁かれているとか、神によって苦痛に貶められているというような認識は、けっして健全ではない。

不満から来る内面の凝視は、さらなる落ち込みを誘発し、ついに際限のない泥沼にはまります。

これがわななのです。

クリスチャンが陥る典型的なわな。

忘れることです。罪を犯しても、悪い習慣があっても、自分が社会的に、教会的に他人と比べて落ちこぼれであっても、関係ない。

罪は悔い改めれば許される。許されたら、神の至聖所に自由に入ることができる。

罪を悔い改めたのにもかかわらず、その罪に拘泥し、ああでもないこうでもないと悩むのは「気を散らす霊」のだましにはまっているのです。

クリスチャンは、一度悔い改めたら、その罪を忘れ、神に受け入れられたことを信じ、ただひたすらに前を向いて建設的な仕事に向かうべきです。

内面で際限なく時間を使うことをサタンが一番喜んでいるということをお忘れなく。

 

 

20010年1月1日

 

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