公共の神話を破壊すべきだ


公共は幻想である。

NHKは公共放送というが、我々はそれを公共と認めない。

例えば、NHKは進化論的世界を宣伝している。我々はそれを絶対に認めない。

NHKが聴視料を決定するならば、進化論の番組制作費を除いた金額で算出してほしい。

社会主義的、福祉国家的な政治観に基づく討論番組、ニュース番組、ニュース解説番組、同性愛やフリーセックスを奨励するような歌を許容する歌番組、・・・

数え上げれば、我々が同意しない番組が無数にある。

だから、公共放送という名で聴視料を取らないで欲しい。

我々は、見たいもの、賛同するものを選択して見るつもり。その際には喜んで金を払う。しかし、今のような反キリスト的な番組制作の姿勢では、金を払いたくない。

NHKを映らないようにしてもらってもかまわない。

今日、インターネットの普及により、人々は、自分の興味関心に細かく答えてくれる情報に接している。

この傾向が今後も続く以上、今までのような「日本人ならこれをし、こう考え、こう行動するのが当然でしょ」というような価値観は通用しなくなるだろう。

ブランド物離れが進んでいるという。かつてのように名前があれば売れるという時代ではなくなっている。

公共は幻想であり、日本人は、国家運営にも公共の幻想を適用していくべきだ。

例えば、シートベルト、ヘルメットの着用義務、メタボ検診義務化・・・

我々がシートベルトやヘルメットを着用しなくて死んだとして国に何の不利益があるのか。

「いや、教育費とか、道路建設の恩恵を受けてきたでしょう。もとを取り戻したいのですよ。あなたに死なれては困る」と役人は答えるだろうか。

これに対して我々は次のように言う。


教育とか我々が教えてほしくないようなことばかりじゃないか。道路にしてもどうしてあんなに税金を使うのか。

我々の税金を安くして、国防や警察、裁判制度、国会運営など我々が公共と認めるものだけについてそれで払い、あとは我々が選んだ業者に道路を作らせ、我々が選んだ教師に子供の教育を委ね、我々が選んだ教科書で授業をやってもらうというのでいいのだ。

我々は国に教育設備や教育内容、道路建設など期待していない。民間でできるものは民間にやらせて無駄な金を使って欲しくない。

我々は、教育など、神に対して責任を負っているのであって、国家に負っているのではない。だから、我々の領域に入り込まないでくれ。

現在の「公共」は、相手の側(国家主義者)が勝手に定義した概念であって、本来の意味からかけはなれている。

我々が聖書的な国家観、教育観、公共観に立ち返れば、少ない税金で、豊かな結果を刈り取ることができるのだ。

(ちなみに)
今のNHKの経営体制では、社会主義国が崩壊したように崩壊する。

どんどん聴視料が上がり、無駄な番組が増えている。

例えば、アラビア語講座はいわばマニアの領域に属する。

国民のごくわずかの人間しか関心を寄せていないものに莫大な予算が使われている。

税金タイプの収入形態では、「仕事が増えて、出費が増えても気にしない。聴視料をアップすればいいだけの話だ。」という亡国社会主義者の発想にどうしてもなる。

 

 

2008年6月14日

 

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